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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「遙北石造文化同好会」のこと 後編

2018-03-09 23:19:50 | つぶやき

「遙北石造文化同好会」のこと 中編より

 昭和54年の春を迎えるころ、転機が訪れる。同年で名を連ねていた会員が揃って就職する。わたしも現在の職場に就職し、生家を離れて長野市内に転居する。このあたりから会報の発行がままならなくなる。「近況」にはけして忙しいわけではないと記しながらも、発行間隔は徐々に開いていく。1ヶ月だったものが2ヶ月と開き、ページ数も少なくなる。その後飯山に転勤し、少し心に余裕ができてきたのか、試行錯誤が始まるが、発行間隔はさらに開く。会員がピーク時から半減したのも、そこに起因するかもしれない。

 発行間隔が開くとともに会員との連絡が滞り、結果的に会活動は低下していく。それを補うつもりて始めたのが「遙北通信」の発行である。昭和60年4月に発行した第1号は、就職6年後のもの。冒頭「「遙北」の発行が遅れ皆様には大変ご迷惑をおかけしております」と記している。そして「会員の方々との通信がままならなくなっています。解消のためにも「遙北通信」の発行により、途絶えがぎみの会活動を確実なものにしたいと思っております」と記している。通信発行後に「遙北」64号を発行し、以後5年の間に76号まで発行するが、結果的に会報から通信に重きが移り、会報の発行は平成元年の4月だ中断する。ワープロ時代に入って、活字を利用した会報は75号と76号のみの発行で終わった。引き続き通信も当初は手書きのコピースタイルだったが、16号からワープロ化し、以後通信は平成8年まで147号発行し中断となった。

 先ごろ触れた平出一治氏は、「昭和の道祖神」と題して諏訪地域の昭和になって建立された道祖神を48回に渡って紹介していただいた。発会当初は石仏そのものを紹介する記事が多かったが、平成になるころは石仏に関連した民俗事象ら焦点をあてるようになったのは、わたしの興味がそちらに移っていったからである。合わせたように、平出氏も諏訪地域の行事などをいくつも紹介していただいた。また興味深い報告も多く、たとえば「ペンキで書かれた水神」では次のように報告されている。

 発掘調査を見学に行った折に、「水神」とペンキで書かれた石神に出会った。それは諏訪市豊田有賀の下村で、防火用貯水槽の隣に祀られていた。
 高さ74センチ、幅91センチ、厚さ16センチの自然石に書かれたもので、台石の高さは14センチである。四隅には御柱が建てられていた。
 この水神に接したことで、古い時代にも文字を刻む以外に、このような筆書きの石神や石があったと考えられるようになった。(「遙北通信」107 平成3年2月1日)

平出一治氏撮影

 

 この水神にひかれたわけではないが、その後コールタールで筆書きされた「道祖神」を下伊那郡上村程野に訪れたことがあった(このことは「下伊那の道祖神⑪」に触れた)。

 このようにあらためてかつて発行した、とりわけ通信を振り返ると、興味深い報告が数多くされている。しかしながら、小さな同好会で発行していたものであるから、公にはなっていない。興味深い報告を、今後いくつかここで触れて見たいと思っている。

 なお、すでにわたしのホームページでいくつか公開しているものもある

終わり

 写真は前回同様に高木英夫氏が撮影したもの。いわずと知れた下諏訪町の万治の石仏である。


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