Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

仕事≠生きがい

2009-04-30 19:55:38 | ひとから学ぶ
 「人生を説く」において仕事≠生きがいの時代ではなくなったという関沢まゆみ氏の言葉を引用(『日本の民俗8』2009/3 吉川弘文館)した。このことについてもう少し考えてみよう。

 日常の中で生業は多くを占める。1日8時間労働としても起きているほぼ半分の時間は仕事をしているわけで、通勤時間を入れるとその比率は高まっていく。まして残業を毎日のように4時間くらいしている人がいたら人によっては起きている時間のほとんどを仕事に関わっているということにもなる。その多くを占める時間に生きがいを持てなくなったら生きている意味すら危うくなってしまう。もし仕事は生きがいではないという人が本当にいるとしたらきっとその人は仕事に関わっている時間の少ない人ということになるのではないだろうか。起きている時間の半分できっぱりと仕事と線引きが引けるとしたら、そういうことは可能なのだろう。また機械的にやることが固定化されている環境の仕事なら時間で割り切る毎日を暮らせそうだ。たまたまわたしがそういう仕事をしていないから「仕事≠生きがい」はないだろうと、思うだけなのかもしれないが、時間的な問題だけではないはずである。

 妻の日々の暮らしを見てみよう。妻は実家の農業を担っている。農業は何時から始まって何時に終わるという仕事ではない。自然相手と言われるように、しなければならにない時期があるが、それは時間を区切られるほどのものではない。だから人によって差が出るとも言え、もちろん働いただけ実入りが多くなりそうなのだろが、必ずしも見入りだけで営まれてきた農業ではなかったはず。それは生活の場である家や地域、人との関わりが仕事の時間に混ざりこんでいる。非生産的であっても必要なことと思われている作業をしなければならず、合理的でない部分が多かったとも言える。そしてそうした部分に対しての眼差しはなかなか世間が注いでいないことも事実だった。例えば屋敷周りを綺麗に整えるという意識は必ずあったはずであるが、必ずしも生産的な部分ではない。このことについては企業でも同様で、会社内に埃が舞うような環境はよろしくないということになる。整理整頓という言葉はごく当たり前なことだったが、もともとその意識があった農業空間において、こうした意識はかなりダウンしたといってもよい。これもまた人によって差はあるのも事実。話がそれたが、妻にとっては時間に制限された部分は少ないものの、ほぼ毎日が仕事であって、そこに明確な休日らしきものはない。逆に言えば明確な勤務時間もないのかもしれないが、そこにどう生きがいを見出すかとなれば、①自然とのやりとりに興味を持つ、②初物をおすそ分けする時の感謝に喜ぶ、③例年にない収穫に喜ぶ、などといったものだろうか。ようは原点には「感謝」の表現が存在する。

 品質管理と生産能力といった数的表現によって働く私たちにとっては、この「感謝」という部分がかなり忘れられていることも事実である。大量消費する時代において、商売は繁盛する。モノを売る人がいて、買う人がいて、そしてその機会は日常的なものとなっている。モノを売った側は「ありがとうございました」とは言うが、買った側が言うことはない。しかし昔からそれが当たり前でもなかったはず。行商と買い手との間にはそれほど割り切られた上下関係はなかった。日常的に財布を出して金銭で消化していく暮らしに、両者の関係は明確な上下が存在することになった。この関係は、仕事の場面でも同様で、例えば委託した側と受託した側の関係も、商売となんら変わりなくなった。ようは提供する側に「感謝」を現せなくなった時代において、生きがいという心理的な部分を補うものが無くなったとも言えるかもしれない。わたしにはたったそれだけのこと、と思えるのだ。生きがい以前の「感謝」、もちろん生きていることも「感謝」なのだろうが、心理的な部分を補うものがどんどんなくなっているということもいえるのではないだろうか。故に、わたしたちは「仕事が生きがい」と口にできなくなっているような気がしてならないわけで、実は仕事に生きがいを持ちたいと誰しも思っているはずだ。
コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****