Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

人形が怖い

2009-04-07 12:48:48 | ひとから学ぶ
 月間「かみいな」という無料配布の新聞の投稿欄に次のような文が掲載されていた。「先日、9ヶ月になる長女の初節句のお祝いをしました。私が子どもの頃は、日本人形が怖くて部屋の隅っこに隠すように置いてありましたが、いま見るとひな人形も華やかでかわいいな、と毎日眺めています」というものである。「日本人形が怖くて」という部分に「そういえば」と思うものがある。子どものころ見た人形たちは、ここでいうように「怖さ」というものが多少なりとあったような気がするのだ。わたしには女の兄弟がないことから、家で見る人形は母が嫁入りの際に持ってきたものだろう。まだ幼いころにひな祭りにそうした人形が箱から出される風景を記憶のどこかに持っている。それほど大きな人形ではなかったこともあり、それを見て「怖い」と思うほどのものでもなかったのだろうが、それでも「可愛い」などと思うような人形ではなかった。その後何段飾りなどというものがテレビコマーシャルに映し出されるようになると、「人形とはこんなに華やかなものなのだ」と感心したものである。それでも人形は例えば怪談話に利用されたり、さまざまに恐怖を与えるための道具として使われてきたそんなこともあって、「怖さ」というものがどこかに印象として育ったものである。投稿されたのは女性であるが、今では「華やかでかわいい」という印象を持たれているが、それは大人になって、人形からそうした怪しさを感じなくなったからのものかもしれない。闇夜を子どもが独りで歩けば「怖い」と思うように、またかつてなら外便所しかなく、夜中には用を足しに行けずに粗相をしてしまうなんていうのも、子どもだからこそ味わった「怖さ」だと思う。そしてそうした恐怖心は、大人になって消えたとしても、どことなく記憶に残る。そうした人形の存在は、さまざまな行事としても人形に託す形で伝承されることになる。そもそも人形流しという形でひな祭りが行われていた事例は、人形というモノが独立して存在してくる以前の考え方といえるだろう。

 6月と12月の晦日には人形祓いの行事も行われている。一般に「大祓い」と言われる行事がそれである。人形に災いや患いを託して流すわけである。そう考えれば人形に託して送る行事も数多い。けしてそれらの人形は日本人形のような具体像ではないが、具体的な顔立ちを示すようになったからこそ、より一層人形に対して災いを託す気持ちが募っても不思議ではない。

 それにしても現代においても、そして大人になってもあまりにリアルな人形と対峙すれば動揺せずにはいられないものである。自分と瓜二つの人形が目の前に存在して気分はどうだろう。もっと言えば自分は生きているが、死んだ人をリアルに再現した人形があったらどうだろう。どんなにこの世に戻ってきて欲しいと思う人であっても、人形として対峙したらとても生きた心地はしないだろう。違うと解っていても似ている人を見ただけでむずがゆいものである。クローン人間など存在するのはもってのほかである。
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