Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

組合員と非組合員

2009-04-17 12:27:41 | ひとから学ぶ

 花見の宴で思わぬ口論が沸き起こった。労働組合の組合員と非組合員との軋轢といってよいだろう。そもそも労働組合は労働環境の改善、あるいは今で言うなら維持のために雇用側との折衝をする。協調を求められるなら、そもそもすべてのその権利を有する者は組合員になるだろう。それが皆と歩調を合わせるというものである。雇用される側がひとつになるには組合加入率100パーセントに越したことはない。よく使われる「一致団結」という旗印が、組合員だけのものではなく、雇用される側すべてに関わっていることだろうと予測される。最近非正規と正規の労働環境の格差が指摘されたが、そもそもかつてのように正規がほとんどであった環境下では、会社の中には雇用する側と雇われる側の二つの立場が分立してその両者が折衝する場が労働組合というものであったわけだ。もちろん労働組合が組織されていない会社も多かったわけで、労働組合があるということはその会社の労働環境が「良好」であるという見方ができたかもしれない。そして労働組合が組織されていれば、雇用されている側として雇用している側への正当な要求の場が保たれたわけである。

 ところが春闘などというものが見る影も無くなって久しい現在、雇用されている側がひとつでないからこそ年中行事のように繰り広げられていた春闘であれメーデーであれ話題にも上らなくなっていった。衰退という道を突き進んだ労働側の権利は、果たして組合を構えている人たちにはどう映っているだろう。にもかかわらずひとつでなくなった雇用されている側にある一部のまとまりある集団は、今までと変わりなく雇用する側と協定を結び、労働環境の維持と要求を重ねていく。かつてのように「勝ち取った」という印象を持ち得ない背景には、労働の環境が「守り」の世界に入っているということにもなるだろうし、年功序列的な昇進が減少していったなかで、求める具体像が画一ではなくなったということもあるだろう。「何を求めていくのか」というところがとても見えなくなったといっても差し支えない。この感覚はわが社のものであって、どこの会社にも適合するものではないだろうが、全体的な流れはそんな感じではないだろうか。

 さてだからこそ組合員と非組合員の違いが浮き彫りになる。組合員側にしてみれば、例えば「残業代を勝ち得ているのは組合が折衝しているからだ」と組合員は言う。とはいえわが社の場合、部署ごとに環境差があってところによっては月間100時間くらい残業をしている部署もあるようだ。わたしも会社では働いていないが、自宅持ち帰りの時間を累積すれば毎月とはいわなくともそれに類似する環境である。しかし協定で結ばれる時間は、年間でこの1月(100時間)程度のものである。人によっては10分の1にも満たない報酬しか受け取っていない。にもかかわらず「赤字」だといってさらなる仕事を要求される状態が果たして労働協約によって守られているものとはとても思えない。もちろん雇用側は管理職というものを配置して、それらを管理しているはずなのだが、これを言葉で表せば、「部署ごとで業務量を調整しているはずだ」ということになる。しかし現実は大きく異なる。労働組合はそれらを把握してその改善に躍起とならざるをえないだろうが、その原因に対して適正な要求を見出していないようだ。そうした中で組合員が「我々が勝ち得たもの」といって非組合員に「お前たちは超勤手当をもらう資格が無い」と詰め寄るのはおかど違いということになるだろう。そもそも労働組合は超勤が常態化しないよう労働環境を改善することを求めるものであって、超勤手当をたくさん払えと求めるものではないだろう。ほとんど組合員と非組合員が同じことをしているのに、非組合員に対して許された権利を剥奪しようとするのは労働組合そのものの向かうものではないし、末期的なものとして捉えられても致し方ない。

 こうしたことを口にする、あるいは思っている組合員も少なからずいるだろうと察知して、わたしは超勤手当てという権利を行使しなかった。この口論の中でわたしの言葉は彼らには納得されるものなのだろうが、そもそも納得されては困る例である。わたしの本意は違うところにあるからだ。赤字にあえいでいる会社が、何も解決策を見出せないでいる現状の中では、本来は社員も正当な報酬とはどういうものかを考えるべきだという考えを持っていた。だからこそ権利だけを行使するのではなく、自らの果たしている役割は適正なのかと省みる必要を投げかけて実践してきたまでだ。たまたま労働組合を辞めるにあたって、「もう二度と超過勤務手当てをあてにしない」と腹に決めたことから決定的にはなったが、本意は違うところにあった。どうも彼らにはそこまでさらけ出さないと理解してもらえない、あるいはさらけ出しても理解されないのだろうと、最近は思うようになった。「もらえるものはもらえ」というのは常道なのだろうが、これほど皆があえいでいる中で、あいも変わらずその意識を持つのはどこか抵抗があるのだ。

 そんな口論のあった矢先に、昨日の日記に綴ったように、久しぶりに権利を行使する。これをわたしは超過勤務手当とは考えない。データー復旧代金と割り切ることにしている。

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