Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「送信」後の葛藤

2009-04-06 12:28:39 | ひとから学ぶ
 ふつうの郵便ではもっと考えていたかは解らない。しかし、手紙を書き終えて読み直すということはしていたものだ。その第一は誤字脱字がないかという確認と、意図することがしっかりと伝わるのかどうかということの確認でもある。いずれにしても読み直すことで、あらためて書き綴った時の気持ちを再確認することになる。もともと書き記す内容を下書きするほどのこともない手紙は、そのときの思いを素直にペン先に伝えていくことになる。手紙に訂正が並んでいては失礼になるだろうし、大きな書き直しはわざとらしくもなる。だからこそ逆に、書きながらそこそこ全体像を描きながら書いていくものだ。ところがそんな手紙も、最近は書くことがない。訂正がたやすいワープロ文であれば、訂正箇所など相手にはまったく伝わらない、完全文である。

 ところがそんな文であるせいかあまり読み直しもかつてのようにしなくなった。ようは文を書きながら読み直しているということもあるだろうが、それはかつてだってあったはずだ。かつてならあまりに訂正が大幅ならあらためて新しい紙に書き始めたものだ。いかに現代では安易に文字を綴っているかと言うことがわかる。それも手紙ならまだ良いほうかもしれない。電子メールばかりになって手紙など綴らなくなったこのごろは、ずいぶんと書きなぐりのような文を当たり前のように書くようになった。それがかつての手紙と同じものということはないが、仕事上の簡潔なやり取りと、友人や知人への親密な手紙もほとんど変わり映えのしない構成になってしまっている。

 手紙の良いところというかそれが悪いところとも捉えられるだろうが、ポストに投函してから返事が返ってくるまでの時間である。これもほかの事例でも何度も触れているが、人には待つ時間の楽しみというものがあったはずだ。「もういくつ寝るとお正月」という気持ちも同様に待つ楽しみである。それが送ったと同時に数分もかからないうちに返ってくる電子メールは、けして「待ち」がないわけではないが、その時間はとても短い。もっといえば「待つ」という思いはなくなりつつあるともいえる。待つ必要がなければ、まるでそれは会話と同じようなものに変わる。言葉を発するがごとく必要事項だけを届ける。それに対して返事をし、またそれに対応する。ここに手紙の代用という捉え方はないかもしれないが、実はこれに慣れてしまうと、手紙というものがまったく機能しなくなる、いや必要だという意識がなくなる。果たして現代人は手紙というものを書いたことがあるだろうか。さきごろある新聞の投稿欄の中に「最近は「御中」と書かずにいきなり会社名や団体名だけを宛書にしているものや、「行き」という部分を訂正もせずに返信するケースが多くなった」とモラルの低下を嘆いているものがあった。モラルどうのこうのという以前にこうした通信手段の変化は、郵便事情とともにその基本的な環境も大きく変えてしまってきていると思う。自ら安易に電子メールに頼っているところからも、自らに問わなくてはならないことはたくさんあるだろう。先日も「送信」をクリックしてから後悔をすることが何度かあった。ようは本音の部分で書いたものが、果たして相手にとってどうなのかということを送信したあとに考えた。「こんなことは書かなくてもよいことなのだろう」と。しかしそういう行為の背景にも、①相手の返信の有無、②反応の内容、③いつ返信したのか、というような反応が期待できるため、かなり安易に送信をしてしまうきらいがある。けして悪いことばかりではないが、頼っているがために、何か書かなくてもよいことまで書いてしまう自分がいて嫌になることもある。

 時代はケイタイメールが主流の時代である。まさに手紙の意識などと言うものは絶滅危惧状態なのだろうが、たとえワープロ表記であっても、手紙を書くという「時」を持たなくてはと思うこのごろである。
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