Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

馬頭観音

2009-04-29 21:32:59 | つぶやき
 伊那市内のことをけっこうくまなく知っていても、今だ足を踏み入れていないところも多い。伊那市内は比較的道が狭いという印象は、ほかの地域を知っている者にとっては思うところである。それは市街地も、またそうでない農村地帯も同様である。わたしが生まれ育った飯島町は、街部はそれほど広くもなく小さなものであるが、その小さな街部も伊那市内の街部よりは道は広い。そして農村地帯へはいるとさらに道の幅が異なる。その理由は、飯島町はいわゆる昭和における生産調整のの始まった以降の国の補助事業を取り組み、全町に近くほ場整備を行った。このことは飯島町に限らず隣接する駒ヶ根市や宮田村も同様だ。水田地帯に張り巡らされた道路は、おおかたの道路が路肩から路肩までの幅が4メートル程度はある。普通車が行き違うには少し狭い感じはするが、農村で当たり前のように利用されるようになった軽トラックなら余裕ですれ違うことができる。ところが伊那市内の水田地帯の道ではそうはいかない。軽でもすれ違うことができない道がけっこうある。伊那市内では前述したような時代に、ほ場整備は部分的に行われたに過ぎず、市内の多くの地域はそれ以前の開田で整備されたままの姿を残す。そんなことが、道の狭さを印象付けるのである。


 そして市街地も段丘崖に沿って立ち並ぶ集落内は、ふだんはめったに通る必要もなく、足を踏み入れたことのない道がけっこうある。山寺の沢の川を天竜川と同じ沖積地から追ってさかのぼって行くと、この段丘崖を縫うように川は西へ向かっていく。そんな川沿いの集落はわたしには認識のなかった地域であるが、段丘崖ということもあって道は狭い。そんな段丘崖に白山社(白山社も記憶にはあまりなかったのだが、そういえばかつて焼餅踊りを見にきたことがあった)が建っている。とても太いケヤキの木が目立つ神社で目通り幹囲は9.8メートルあるという。推定樹齢 は800年というから鎌倉幕府が始まったころの年代である。この社の境内に石仏が何体か安置されている。そんな石仏の中でわたしがもっとも気に入ったものは天保9年銘がある馬頭観音である。温和な顔の上に彫られた馬頭の表現が稚拙というかなんというか、この時代、あるいは作者のイメージする馬とはどういうものだったのかなどと思いがはせる。馬頭を浮き彫りにしたサイドに刻まれた耳の表現が特徴的である。すぐ近くに天保6年の馬頭観音も建っているが、前者と大変よく似ている。おそらく彫った人が同じなのだろう。石仏群にはさまざまな年代のものが混ざっているが、改めて年代によって同じ馬頭観音でも表情が違う。寛政5年銘のある馬頭観音、これもまたほかではちょっと見ない観音さんの表情である。ちょっと見では一見不動明王と見間違う。頭上に馬頭が彫られているから馬頭観音と解るが、顔だけではそうは思わない。天保9年と寛政5年では50年近く差があるから、同じ作者ということはないだろう。作者によってイメージしているものが明らかに違うということがここから解るのだが、馬頭の耳のイメージは天保のものも寛政のものも似ている。このあたりでは馬の耳といえばこういうイメージがされていたのだろうか。

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