Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

伝承の商品化

2009-04-03 12:26:54 | 民俗学
 「今の日本では、みずから多くのお金と手間をかけてわざわざ住みにくい社会を作っているのではなかろうか。われわれは、うわべだけのニセモノの氾濫する世界ではなく、大地に足をつけた本物の生き方を構築していく必要がある」と飯島吉晴氏は『日本の民俗8 成長と人生』(2009/3 吉川弘文館)のあとがきに記している。その具体的な事例は同書を読み込まなくてはならないが、前書きとあとがきの中で盛んにあげられているのが、出産の医療化や施設化という現象である。ちまたで盛んに言われるのは産科の廃止や縮小などにより、安全安心な出産が望めなくなるというものである。かつてなら出産は病ではなく、医師に頼らなくとも可能なことであった。それが今では医師なくしては出産はできないというまでになった。医療化したという意識の最たる部分かもしれない。「産婦は自分で産んだという実感や達成感を持ちにくくなり、女性の出産への貢献は顧みられなくなる」と言う。さらに松岡悦子氏が『暮らしの中の民俗学3 一生』で取り上げた事例をあげ、「松岡は、旭川市の育児サークルの母親六七人へのアンケート調査の結果、予想に反して現代の若い世代の母親の方が主に一九五○~六○年代に育児をおこなったシニア世代よりも多くの儀礼をおこなっている」と述べ、その理由は「医者の言葉とマタニティー雑誌の情報が現代の若い妊産婦の行動の指針となって」いるからだという。ここに商品化経済、消費社会が妊娠・出産を人の生身の行為として捉えず、商品提供の一場面として捉えていることが解る。松岡氏の「女性が母になる道のりをいっそう厳しいものにしている」という言葉は、「本物の生き方」とはかけ離れたものということになるのだろう。

 伝承母体の弱体化は、商品として提供する側にとっては好条件ということになるだろうか。わたしも時おり触れていることであるが、かつてなら自らおこなった作業を、「安いから」という感覚で安易に利用してきたわたしたちである。例えば修理するよりは買ったほうが安いという感覚は、使い捨て社会を築いた。同じように経済条件を天秤にかけて結論を出してきたことは数えればたくさんある。それらは商品から始まったのであろうが、今や伝承という部分においても親や年寄り、もっといえば先輩や他人という設定においても期待しないことになっている。何も知らないが知ろうと思えば方法はあるというネット社会。「そんなのネットで探した方が早いよ」という意識はわたしにもある。しかし、それは強いては人から人へ伝承するという文字ではない人と言葉という教えの世界を抹消することにもなるのだろう。医療化や施設化は、専門的な信頼できるストレートな関わりになるだろう。しかし、いっぽうでそのストレートな個人と個人のつながりは危ういものも抱えるだろう。それを表すものの一つとして飯島吉晴氏は「ゆとりを喪失した現代社会では、あの世への想像力も弱体化せざるを得ない」といい、死に向かっての心構えがなくなり、死に際してゆとりがなくなっている姿を捉える。野田正彰氏の「不鮮明になるあの世とこの世」(『あの世とこの世』)を引用し「今を十分に生きずに将来にのみ向かって生き急いできた人には、葬儀にも時間的効率を求め、業者は生者の生活をできるだけ乱さないように葬式から戒名の買い取りまでセットにして迅速に滞りなく処理し、死者は急速に記憶から忘れられた存在になっていく」と言う。本来であれば人一人の死に、もっとゆとりを持ちたいものの、損なうことのできない日常のあり方が問われる。提供されるサービスが合理的だと判断しているわたしたちにも問題はあるのだろうが、かつてなら商品化されなかった部分までもが金銭で処理される時代であることへ、まずもって危うさを抱かなくてはならない。さらに野田氏の「二○年ほど前、玉姫殿で結婚式をあげた夫妻が、その祝いの式に喜びの涙を流した父母を、家ではなく常設葬儀場『玉泉院』から送り出す時代になった」という言葉になるほどと感心してしまう。
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