Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

人生を説く

2009-04-28 12:31:22 | 民俗学
 『日本の民俗』シリーズの8巻(2009/3 吉川弘文館)は「成長と人生」と言うテーマである。従来の民俗学で言うところの人生儀礼、あるいは人の一生という枠でくくられた分野である。地域や家族のあり方が変化してきている現在、このテーマを掲げるとその変化は著しいとともに、仕方のないことと理解されるだろう。しかし、かつての儀礼にしても地域社会が担ってきたものにしても、その意図は多様であるとともに、奥深いものがあった。どれほど変化しようがそこに学ぶものが多いことは誰しも感じている。そんななか、今シリーズの中でもとくに変化の描き方から意図が汲み難い内容で閉じられていると感じた一冊である。研究者の意図によってどうにでも展開されるという印象を与える事例の記述がそこにある。それぞれの場面では頷けるのだが、その展開の先に何を求めようとしているかは捉えにくい。

 関沢まゆみ氏は宮座に触れ、宮座というしきたりの変化を肯定し、そうした流れにみる現代人の試み、受容への努力に民俗を見出そうとしている。例えば一子相伝であっても後継者難から部外者を導入していくというようなことも受け入れられていかなくてはならないのが現代なのだと解る。それをまたそれぞれの年代が「世代交代」という中で意図的に変えていく努力を紹介する。変化ありきを解明していくのも民俗学の視点なのだと知る。そんななか頷くことも多いのだが、どうも民俗学らしく思いいれのような傾向がそこにあって、頭を傾げるフレーズも見受けられる。だからこそ民俗学?と言われるのかもしれないが、そんな気になった部分をいくつか拾ってみよう。

 関沢まゆみ氏は「大人と仕事」においてこんなことを言葉にしている。「それまでのような仕事イコール生きがいではなく、仕事と生きがいとを分けて考える傾向が出てきたのである」と高度成長期以降オイルショック後のサラリーマンたちの生きがい観を捉えている。ここからオイルショック前の右肩上がり時代を仕事=生きがい、その後を仕事≠生きがいとふたつに分けているが、果たしてそうだろうか。そしてその意識の変化が大人の役割、そして老いの中にどう連鎖していくかを語っているが、その最終目標は見えてこない。わたしたちが年齢を重ねる中にさざまな思いを巡らせているのは、情報の多さとその情報の認識格差が悩みを大きくしている。そもそも仕事に生きがい見出さなくなったわけではないだろう。多様な情報の中で迷いが多くなったといことではないだろうか。人々は自分のしている仕事に誰しも生きがいは見出そうとしているはずである。その上で暮らしに余裕ができたから余裕を別の生きがいに求めようとしたまでだ。確かに「一人前の大人としての、仕事と人生と家庭の意味を深く考えることが求められる時代」になったかもしれないが、それが世代と老いとどう関わるのか、理解しにくい。

 また飯島吉晴氏はあとがきの中で岩澤信夫氏の言葉(『生きものの豊かな田んぼ』日本放送協会出版 2008)を引用して「イネはいつも五葉で成長する植物でずっと成苗植えをしてきたのに、人でいえば「七つ前」の状態の稚苗を植えることが常識と化し、田んぼからはほとんど生き物が消えてしまった」と書いている。稚苗を植えるようになったから生き物が消えたわけではない。さらに「不耕作起冬期湛水をくみあわせた自然農法の田んぼは生き物の楽園となり、多種多様な生物の働きで地力が高まり、雑草もはえにくく農薬や肥料を施さなくても、そこではイネは野生本来の力を発揮し、どこよりも立派なコメができるという。諸経費や労力、環境の点からもいいことずくめで普及してよいはずであるが、農機具や農薬・肥料メーカーの利害のほか、周囲に気兼ねが多く保守的で情報に疎い農村には容易には普及していないようである」と引用を続ける。引用を多用する飯島氏の記述は脈絡はあるものの、このように不可思議な言葉をそのまま引用する。情報に疎いがためいいことずくめの農法をしないわけでもないし、そもそも「いいことずくめ」という表現には疑問符が並ぶ。最後に「われわれは、うわべだけのニセモノの氾濫する世界ではなく、大地に足をつけた本物の生き方を構築し探求していく必要がある」と締めくくっているが、岩澤氏の言葉を引用しながらこう締めくくる流れはとても理解に苦しむ。農村社会に詳しいはずの民俗学がこうも乖離した世界を描くと、そこまで綴られていたものは「何?」という印象を持ってしまう。
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