Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

若き日の思い出

2009-03-15 23:47:41 | つぶやき
 先日新聞に今冬の累積降雪量が際立って少なかったという記事が掲載されていた。年寄りばかりになった豪雪地帯では、雪が少ないと「ありがたい」と思うだろう。県内の収容な5地点の累積積雪量が示され、少なかった年ベスト10が載っている。1980年代以降にベスト10に入る年が増えていると述べているように、総じて地球温暖化ということで解釈するのだろうが、それぞれの年を並べてみていると気がつくことがある。8という数字である。たとえば長野ではもっとも少なかったのが1988年ついで今冬の2008年、3番めには1978年が並ぶ。ベスト10には1958,1998も入っており、50%の確率で8のつく年である。ほかにも松本では1998,2008と2年、飯田では1988,1958,2008と3年、諏訪でも1998,1988,2008と3年を数える。実は8だけではなく8に近い年が多い。長野では1999,1989、松本では1999,1969,1959,1977、飯田では1959,1957,1969,1999、諏訪では1997,1959などといった具合で、5割以上の確率で8年を中心とした前後の年に雪が少ないことが解る。ということで今年はめぐり合わせで雪の少ない年といえるのだろう。

 今のように四輪駆動、いわゆる4WDという車が圧倒的に市場に出回っていなかった時代には、まだ後輪駆動が当たり前のじだいだった。あの時代にスパイクではなくスタッドレスしかなかったら、事故続出だっただろう。わたしが運転を始めた時代には、まだ前輪駆動という自動車も少なかった。しばらくすると前輪駆動の方が車体が軽くなるということもあり、またそれだけ安くできるということで増えてきた。リッターカーの前輪駆動に乗ると、それまでの後輪駆動の車とは違い、アクセルを踏んでもよほどのことが無ければ尻を振るという現象は起きなかった。若かったということもあるのだろうが、上りの坂道では思い切ってアクセルを踏んだものである。1月のある未明、わたしは栄村の行事を見に行こうと家を出た。自宅を出る際にすでにしきりに雪が降っていて、国道は真っ白だった。当時はまだスパイクタイヤの時代である。定かではないのだが、後輪は普通タイヤだったかもしれない。伊那市を過ぎ、箕輪の町を過ぎたところに大出へ上る坂がある。この坂をどのくらいのスピードを出していただろう、60km以上出ていたかもしれない。「上りは大丈夫」という過信があった。その直線ののぼりで尻を振ったのである。さすがに振れ始めるともう止まらない。見事に縁石にぶつかって車は停止したが、未明という車がほとんど通らない時間帯ということもあって、自損事故で済んだが、対向車がいれば大変な事故だったかもしれない。もちろんほかの車が通るような中なら、それほどスピードを出すということはしなかっただろうが。豪雪地の栄村へ行くにもそんな軽装備で行ける環境があった。そして車の走らない時間帯に好きに走るのが爽快でならなかったのだ。事故を経験した後も、けしてそうした悪条件を回避するようなことはなく、けっこう雪道を走るのは好きな方だった。

 最近は雪が降ることもなく、わくわくするようなことも少なくなったが、あの飯山までノーマルタイヤで毎週のように行き来していたなんていうと、みんな「嘘だろ」と言うが、本当にそういうことをしていたし、それができた時代であった。もちろんどうしても動けなくなることが予想できるからチェーンを持っていたことは言うまでもない。



 昔のアルバムを開いていたらずいぶん昔の飯山の写真があった。もちろんわたしがいたころのものではなく、もっと昔のものである。なぜこの写真を持っているのか記憶にない。昭和30年代から40年代の風景だろうか。向こうの方に見えている山々は関田山脈である。
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