Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

水への思い

2009-03-12 12:22:20 | 自然から学ぶ
 何でもない水田地帯のど真ん中にかつて井戸があったという碑が建つ。南箕輪村大泉の東原の幹線村道の脇に、「かねなかの井戸」があった。周辺の地形を見る限り、特別そこに崖があるわけでもなく、少しばかり洞になっているわけでもない。気にしない人ならまっ平と意識しても不思議ではない。ちょうど大泉集落の東側である。大泉の集落には縦井戸がいくつもあるということは以前に触れた。扇状地形の真上という場所だから、そこに水が湧き出るというのも不思議に思える。大泉集落の上部の同じような扇央部にも井戸があって、ふだんは水が流れていないが、雨季には水が流れているという。ムクリ横井戸と言われるもので、明治33年に造られたものという。西山に向かって500メートル近く掘られている井戸というが、現状を見る限りどれほど湧水があったものなのか期待は持てない感じである。そのいっぽうそこから南へ向かい、大泉川の谷へ入った崖下にある西村の井戸は、常に湧水をたたえている。ここなら湧水があっても不思議ではないような場所であるが、それでも西山に向かって630メートルも掘ってあるというのだからなかなかのものである。

 そう捉えて南箕輪村の横井戸に視点をあててみると、段丘崖下にあるものは今でも多量に湧水があるようだが、段丘上のかつての井戸ではほとんど湧水の姿を見ることはできない。前述のかねなかの井戸もそうだし、ムクリ横井戸もそうである。大泉川を南に渡り大芝原に出ると、松林の中に横井戸の出口がある。少しばかり沼状になっていて、もともと湧水が出ていた場所なのかもしれない。そこから西山に向かって掘られた距離は、900メートルを超えるというからすごい。ここもまたこの季節には一滴も水の姿をみない。この井戸は大正2年に掘り始められ、大正9年に完成したという。直下に西天流幹線水路が流れているが、その工事期間と重複する。この井戸の位置から幹線水路までの間には水田はなく、用水を供給している受益も重複している。明治期から大正初期にかけて、こぞって水を求めた姿がみてとれる。確認できる井戸は10箇所ほどにのぼるが、解っているものはほとんど明治30年代から大正にかけて造られたものである。

 段丘崖に造られた井戸にしてもそれらは横井戸であって、同様に西山に向かって掘られている。北殿の松林寺の参道脇にあるものは、ここから天竜川にかけた地域の共同井戸として利用されたものという。現在では飲み水としては利用されていないが、生活用水として現在も機能している。そういえば以前松島信幸氏は、大泉川も大清水川も帯無川もすべて尾に清水が湧く川という意味だと説明していた。どの川もふだん水はほとんど流れていない。とくに帯無川は少ない。呼称からいけば、尾に清水が無い川ということになるだろうか。

 伊那インターから数百メートル東に下った、やはり水田地帯のど真ん中から急に水路が現れる。これもかつて脇にあった家が掘ったもののようで、540メートル西に向かって掘ってあったものという。現在のインターを超えて西まで掘ってあったことになる。この一帯は西天流幹線水路が造成された当時に開田工事がされたままほとんど景色は変わっていない地域である。部分的にはほ場整備がされたところがあるが、全体からいえばわずかである。そういう意味ではかつての水への思いを考えるには好条件な地域といえるかもしれない。
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