Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

溝は深まるばかり

2009-03-09 12:25:22 | つぶやき
 トーカチにみる死と再生という面について、先日触れた。85歳の年祝いをもって「人間世界とはお別れ、それ以上生きると子や孫の分を生きることになる」という思想の背景は十分に理解できる。長生きをするなという意味と捉える前に、若い人たちにすでに譲っている身は、「住まわせてもらっている」という尊さにも思う。死すれば生まれるという思想は循環していくこの世の自然の成り行きである。ところが寿命が伸びるだけではなく、不慮の事故で亡くなる、あるいは一人前にたどり着く前に亡くなるというケースが減少し、医療の進歩とともに人口は増加した。少子化の先には国民総生産の減という姿があり、それは低迷する国力という面で望ましいものではないという。だからこそ人口増加社会は明るいということになるのだろうが、バランスの悪い循環は人々の心を揺さぶる。

 棄老伝承の浮かび上がった背景には、そうした老いに対しての意識を悪習として捉えてのものだったのかもしれない。「年寄りを山に捨てっぱなしにしていたが、だんだんにその悪習が改まり、単に形式化されて、一日だけ捨てるというように改まった」という解釈を古家信平氏は久米島仲里村での事例で解説している(『日本の民俗 12 南島の暮らし』)。長寿といえば日本といえるほどに世界で知られている。もし長生きすることで孫の寿命を吸い取るというのなら、一時の長寿で終るものが、継続的に長寿国は続いている。しかし、考えようによっては不満が湧いても不思議ではない。

 息子がちっょとしたことで医者にかかる。支払うときの金額は数千円。3割負担ということで1割だけ払う人たちに比較すれば3倍だから高くつく。年寄りの負担額もかつてに比べれば上がったものの、けして働き盛りの人たちに比較すれば高額というほどでもない。そして年寄りは無理をせずに暮らすから、もともと大きな怪我をする比率は低い。若い人たちに比較すれば当然医者通いの確率は低いということがいえるが、そこに老化によるさまざまな病がかかわるからけして負担が少なくないことは十分に解っている。しかし、無知な息子にすら自分で支払う額と年寄が支払う額の違いに矛盾を持っている。当然その理由を教えなくてはならないことなのだが、苦しみぬいている社会では、どうしても年寄は恵まれていると思われても仕方のない部分がある。高齢者に対して冷たいという言葉が誰彼ともなく、そして政治の舞台でも聞かれることであるが、不遇な若者たちにそれを十分に説明しているだろうか。また説明できるだろうか。わたしは「それ以上生きると子や孫の分を生きることになる」という考え方は好きである。長生きはするなというのではない。ただ意識としてそうした控えめなものは、生というものではなくいろいろな立場という面で置き換えればより実感が湧くだろう。自らの年齢、そして立場をわきまえて身を引くときというものがある。そういう意味で、かつての「悪習」というだけではなく、その考え方を学びたいと思う。

 先日中川村で百歳になった村民への祝い金を引き下げる条例改正案が否決された。村では財政的なことを考えてその案を提出したと言うが、周辺の町村とし比較して飛びぬけた祝い金だったというのがその背景にある。今では百歳の人は珍しくなくなったが、それでも数えるほどしか市町村の中にはいないはず。現行では10万円だったものを5万円に引き下げたい意向だったよう。周辺とくらべてといった理由、逆に10万円という額は村の特徴といって反対意見が続出した議員側、どちらの意図もわたしには引っかかるものがある。年寄に冷たい社会であるとともに、いっぽうでその矛盾を垣間見ている若者、共存できない、できていないという印象は否めない。その一方で福祉を口にして「優しさ」を掲げる人たちがいる。いっこうに両者間にある溝は埋まらない。もちろん老人と子どもが同居しなくなれば当然の成り行きなのだろうが。
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