Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

初めて聞くように努める

2009-03-05 19:39:19 | ひとから学ぶ
 「一つ事を聞きて、いつも珍しく、初めたるように、信のうえには、あるべきなり。ただ珍しき事を聴きたく思うなり」とは蓮如の言葉という。『慈窓』526号(真宗大谷派善勝寺報09/3/1発行)にある「一日を大切に」という記事に紹介されている。人生は歳を重ねるごとに日々が早くなる、という実感はでれしも感じていること。この早くなるのはなぜなのか、ということを仏の世界の視点として解いてくれている。子どものころ「もういくつ寝るとお正月」といって待ち遠しくその日を数えていたことを思うと、そういう実体験がおとなになるとなくなるということになるのだろうが、そうばかりとも言えない。もう「いくつ寝ると仕事の納品日」、もういくつ寝ると監査の日」「もういくつ寝ると検査の日」といった具合に思い描く暦に追われていることがイメージを作っているおとなは、仕方のない日々に追われているといっても差し支えない。お正月を待ち望んでいるこころもちと、追われる身の違いはまったく異なる。楽しい日を待ち望む高揚感、それは子どもに限らず、おとなでもけして無いわけではないはず。「もういくつ寝ると海外旅行」「もういくつ寝ると大型連休」などといった心持のときは、きっといつになく日常は長く感じるかもしれない。ところがそれでも「早い」と思うのは、楽しい日々を迎えるまでの過程に他の動きや思いが幾重にも折り重なるからだ。そこへゆくと、負担もなく、例えば楽しい日々を眼前にし、そのことばかり考えている子どもの心には、他の折り重なるような雑念は混ざらない。そればかり考えていれば、時の過ぎるのが遅いものである。「まだこれしか経っていない」と。

 同報ではこのことについておとなになるほどに「世の中を注意深く観察することがなくなっている」のだという。見るもの聞くものが真新しい子どもの心持ちと、何もかも解っているように解くおとなでは、物事に対する姿勢が違うということになるだろうか。「長く生きているのに、何も見ていない、何も聞いていない」とまでいう。日々の早い理由を解いているかどうかはともかくとして、せわしさの中で注意深く観察する意識がなくなっていることも事実だし、何事も解っているように振舞うのもおとなの姿であることも事実だ。考えてみれば、あるいは視点を変えてみれば「本当にこれでいいのか」というようなことはたくさんある。それをふだんわたしが言うような「無駄」という視点に置き換える必要はないが、ときに人はそう言うかもしれない。「人の話を聞く時には、いつも初めて聞くように努めるがよい」という冒頭の言葉は、実はおとなたちの視界から消えているモノへの注意深さのなさに警鐘を鳴らすような言葉である。もちろん踏ん反り返って「聞いてやる」みたいな態度は論外ということになり、世の中にはそういう上下関係をもって物事を読み取ろうとする常識もある。そもそも平らな世界であった子どもの幼い意識が、現在においては幼いころより上下意識を持ちながら成長していくのだから、子どものうちから「早い」と思っている人たちも多いに違いない。「解ったような顔」というのは、実は上下という人間社会に組み込まれるほどに成長するものなのだろう。そういう意味で蓮如の言うとおり、常に初めてのことと思いながら人と対するという意識は大事なことと言える。
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