Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

上片桐駅の惨事

2009-03-03 22:18:58 | 歴史から学ぶ
 『伊那』3月号に伊那電気鉄道の上片桐駅での死亡事故のことが書かれている。現在の飯田線の前身である伊那電気鉄道は、大正9年に上片桐駅まで開通した。その2年後に飯田まで開通しており、事故はその1年後に起きたものである。わたしはここで生まれ育ったものではなく、事故のことは知らなかったが、母が上片桐生まれということもあって無縁の土地ではなかった。しかし、かつて飯田線で大きな事故があったということはまったく耳にしたこともなかった。それを示すようにこの記事を書かれた事務局の原田さんは、「「郷土史年表」や「飯田下伊那の明治大正の百年」など各種の書籍が出版されているがどの書物の年表にも、この事故のことが取り上げられていない。わずかに「下伊那二〇世紀年表」に「大正一三年九月七日 上片桐にて伊那電衝突」僅かに一行書かれているのみ」と述べており、原田さん自身もこのことについては認識がなかったようである。

 記事によると、大正13年9月7日、午前6時21分に辰野駅を発した電車が同9時4分に上片桐駅へ到着した際、後方よりやってきた別の貨車が衝突したというのである。追突された勢いでそのまま電車は進み、大栢地籍のカーブで脱線したという。2名即死、19名の重軽傷者を出した。なぜ後ろから追突されるのか、どういうダイヤで運行されていたのか、開通して間もなく、また貨車が導入されたころということもあって不慣れな運行が行われていたということなのだろう。この事故は転覆事故という大事故であったにもかかわらず、同日正午過ぎに飯田を発車した電車はすでに平常通り運転されたという。今ではとても考えられないような復旧速度である。事故原因などを詳細に探るというようなこともなく、再開されたのではないだろうか。記事を書かれた原田さんが言うには、昭和30年に泰阜村田本駅付近で落石に乗り上げた電車が、天竜川へ転落し死者5名、重軽傷者30余名を出した事故に次ぐ、飯田線史上の大きな事故という。開通まもないこの時期には、事故も多かったという。今なら事故続出だったら営業停止にされていたものだろう。おおらかな時代とも言えるが、当時にしてみれば高速道路のごとく住民の「足」となっていたことだろう。

 そういえば辰野を6時21分に発車して上片桐に9時4分に到着というから、所要2時間43分である。現在の運行速度をみると、平均的には1時間30分余である。当時にくらべると約1時間短縮されている。とはいえ、すでに90年ほど経過している。この短縮時間が進歩と見えるか、それともその程度と捉えるか、見方は異なるだろうが、毎日利用している電車の速度は、かなり速い。もちろん停車駅が多かったり、交換待ちがあったりと遅くさせる要因はたくさんあるが、その後駅の数が増えたというわけではない。そう考えると1時間の短縮というのは進歩がないといっても差し支えないだろう。わたしの子どものころにはまだ「複線化」に対しての要望が聞こえたものである。なかなか高速化されない、できない環境下において、まだまだ飯田線への期待が大きかった時代である。いずれにしても身近な駅でこんなに大きな事故があったということはまったく知らなかったことである。そしてその当時の駅舎は、ついこのごろコンパクトに生まれ変わった。
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