Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

しとみ戸

2009-03-06 21:25:36 | ひとから学ぶ
 「けえどばたに育った者は、馬糞っぼこりを浴びて育つから気が荒い」というようなことを母から聞いたと、『山裾筆記』(平成3年 信教出版部)に松村義也氏が書いている。「けえどばた」とは街道の端という意味である。ようは往来の激しいところに育った人は、気が荒いということになるだろうか。単純にマチ場というのではなく、往来が激しいところだから気ぜわしい人たちとも接する。すると気も短くなるだろうし、荒っぽさもなければそうした雰囲気に飲み込まれてしまう。そういう意味では、具体的にそれを数字に表すことはできなくとも、どこか頷けることなのかもしれない。

 車を運転していて時おり思うのは、家の込んだところで、加えて往来の激しい道端に住んでいる人たちは、「大変だなー」ということである。何が大変かといえば、今ではアスファルトで舗装されてはいるものの、そうはいっても埃が絶えず舞っていることだろう。そんな表通りにしか陽を求められないとしたら、そんな場所に洗濯物を干すのはためらうだろう。布団などとても干せない。裏側にそうした場所があったとしても、どこか埃っぽさを感じる。埃はやっかいなものだが、その他にもいろいろあるだろう。振動、音など気になることはたくさんあると思う。しかし、そんな環境に慣れてくれば、それを特別意識していないのだろう。意識していたら「住めない」ということにもなる。しかし、そうした環境に住んでいない者にとっては「よくまあ」と気を使ってしまうのだ。雪の降った日、シャーベット状になった雪を、行きかう車がはね飛ばしていく。もちろん人の脇を通るときは減速するものだが、人通りのないような場所は、たとえ家が道の間際にあっても、誰も減速などしない。見事に飛ばされた雪は、家々の壁にぶつけられていく。母屋がすぐになくとも、隔壁として設置された塀にもみごとな模様が描かれる。そんな姿を見るたびに、前段のような思いをする。道端なら地価も高いのだろうが、住むには良い環境とはなかなか言えないのである。それこそ密集した住宅街ともなれば、長年そうした悪影響を抱えながら暮らしている。そうした人々にとってみれば、バイパスというものが待ち遠しいに違いない。しかしいっぽうで、そうした住宅街にある商店は、行きかう人々が対称だから、住民とは視点が違う。うまくはいかないものなのだ。

 松村氏はけえど端には「してみ戸」の家が多かったと書いている。雨戸のことで、たての雨戸を横に三段積んだ恰好のものである。今でこそ雨戸といえば横開きであるが、縦から横にして戸をはめていく家がかつてはあったのだろう。最近はそうした戸を見なくなったが、わたしの身のまわりでは、神社の拝殿の前面を覆う雨戸がこのしとみ戸になっている。もちろん上からはずしていくから、最期は下段の戸が残る。開け方はともかくとして、現代の住宅にもこうした積み重ね型の戸が応用できるだろうし、雨戸という機能からすれば、その方が柔軟なのかもしれない。松村氏も「上1枚だけ上げてもよいし、中段まで開けてもよいし、天候に応じて調節できる点都合良い」と言っている。「しとみ戸は人見をするからそう呼ぶ」と書いている。ちなみにしとみ戸は格子状で水平に跳ね上げて開くものを捉えている人が多いようだが、それだけではないようだ。
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