Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「上り」と「下り」

2009-03-26 19:28:44 | ひとから学ぶ
 わたしがよく引用させていただく『山裾筆記』の著者、松村義也氏の奥様からはがきをいただいた。最近伊那谷の南と北といった地域性について触れた記事を書いたことへの感想を送っていただいたのである。それぞれの生まれ育った所、そしてよそからやってきた人たちの会話、そんな中からふと気がつく地域性のようなものを集めていくと、それぞれの地域がどういうポジションにあるかということがきっと見えてくるのだろう、とそんなことを奥様のはがきから教えられたのである。

 彼岸会に向かおうと飯田線の小町屋のホームに立った。新しくなったホームで電車を待っていると、スピーカーから「上り電車が参ります」と流れた。そこであらためて「上り」とはどちらかということを意識したと言う。鉄道の場合東京に向かって「上り」とされており、東京に向かう本線に連絡する側を「上り」としている。例えば中央東線なら東京方向が「上り」となり、東海道本線も同様に東京が「上り」となる。したがってローカル選の場合、始点と終点のどちらが順位の高い本線かということで上下が決まっているようだ。この場合中央東線よりは東海道本線が格が高い。だから東京に近いというと中央東線側が「上り」と思いがちだがそれは違う。飯田線は東海道本線につながっており、東海道本線側が「上り」となる。これは同じ中央選でも西線は名古屋が「上り」となるところからも解る。きっとふだんそんなことを意識していない人にとってみれば、なぜ東京から離れていく方が「上り」なのかと不信を抱くだろう。「そうだ飯田線は下伊那方面が上りなのだと知ってはいたけれど、何か不思議といった感じ」と奥様は述べられている。ふだん上伊那郡とか下伊那郡といった行政枠になじんでいると、自然と地図を見るように南が「下」、北が「上」というイメージを持っているのだろうが、電車に乗るとひっくり返っている。それぞれが意味あってのことなのだろうが、その意味が理解できたとしてもなじめないものを感じたりするのである。飯山線のように上水内郡側の長野が「上り」で、下水内郡側の飯山が「下り」ならすっきりするということなのだろう。では上下はどう付けられるということになるのだろうが、基本的に川の上下という関係なのだろうが、ではなぜ上佐久郡と下佐久郡にはならなかったのだろうかということにもなる。上下という位置関係に意識が働けば、南伊那郡と北伊那郡になっていても不思議ではなかったはず。にもかかわらず上下をあてたあたりから、この「不思議といった感じ」が生まれることになったわけである。

 わたしは上下の境界域で生まれ育ち、そのまま少し位置を変えたものの、同じように境界域で今も暮らしている。行政上はどらかに必ず割り振られているものの、どっちつかずのところが常にある。それを見透かされたように、境界域の人間はいざというときに相手にされない、あるいは信用されないということがある。それは「嫌なら向こうに付くだろう」という印象を与えてしまっているからである。逆に言えばどっちつかずな雰囲気を見せずに、一貫していればそうでもないのだろうが、どうしてもそういう意識をどこかに持ってしまうものだ。例えば今回記事を書いたのは『伊那路』という伊那市を中心とした郷土誌である。いっぽう飯田を中心とした『伊那』という郷土誌があって、境界域の人たちには行政枠にとらわれず、どちらかの会に傾向する人がいる。上伊那に住んでいながら『伊那』に頻繁に記事を出す人がいれば、「この人はなぜ」という具合に下伊那の人が『伊那』に書いているのと違った不自然さを覚えるものだ。どちらの会にも関わっていながら、片方にかたいれしている境界域の人間は、必ず前述したようないざというときに、天秤に掛ける可能性がある。それを自らも察知してアプローチしているが、「やはり」という感じにどっちつかずをさらしてしまう。不思議な意識なのである。
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