Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

社会の望むもの

2009-03-16 12:48:32 | ひとから学ぶ
 信濃毎日新聞の「森の世紀」では、林業の現状を捉えて報道している。建設予算の減少に伴い、ほとんどの建設会社がこの森林整備にも関わるようになった。そして森林税が導入されるように、目に見えるところでは主に県が主体となった森林の整備が目立っている。長野県は前県政時代に一般競争入札制度に一気に転向していった。もちろんこのことは悪いこととは言わないまでも、良い面ばかりというわけではない。しかし、世の中の大勢はその方向に向かっているし、先がけて長野県は動いていると言ってもよい。ところが地方のように限られた人口の社会においてそれを導入すると、小さな企業は大きな企業に翻弄されてしまう。ただでさえ働き口の少ない社会は、人口減少という流れを止めることはできず、一線を退いた人たちには良いだろうが、これからという若者を定着させることはできない。もちろん社会認識や価値観という面に変化がくればそうともいえないだろうが、とてもそういう後ずさりをするようなイメージは避けられる。

 そうしたなか建設不振の中で林業に入ってはみても、いわゆる入札制度による低価格競争は「合わない仕事」と捉えられがちであり、条件の良いものを自ら手を出し、不利益なものは下請けへ出すという構造はどこにでもあるものである。3/16付朝刊ではそうした下請け構造での問題を扱っている。下請けの下請けという具合に下されていった仕事を直接請け負った際の額は、請負額の1/3にも下がっているという。建設工事のように材料費がかかるものならともかく、山の手入れともなれば実際の業務のほとんどが人件費になることから、結局は低価格で仕事をすることになる。当然仕事に対してシビアになって、とても余計なことまで手を出す余裕はなくなる。どれほど良いと思う方法があってもやれと言われたことだけをするだろうし、仕事に対しての思いは低下する。そんななかで起こったのは、「山の中だからやらなくても解らないだろう」という発想で契約内容の仕事が行われなかったということである。

 社会の構造と現実の山の環境というものが整合しない事例の一つといえるだろう。社会の構造とは何かといえば、説明のできる詳らかな金銭の動きであり、公の仕事にはそれが求められる。かつてならお役所には不明瞭なものがたくさんあっただろうに、今や鉛筆一本ですらその所在が求められることになる。お役所はそれで説明できれば言い訳が立つということなのだろうが、お役所の口車に乗って踊らされる庶民はなかなか難しい立場となる。そもそも山の手入れを下請けに流していくようなシステムが健全とは思えない。そしてもっといえば、自然相手の仕事を、入札だからといって毎回違う人たちが携わるのは、問題の所在を認識して継続的に管理していくという面では、むしろ問題が多くはないだろうか。同じ人たちが長年見ていても自然の動きは毎年違うだろう。それは農業も同じで、毎年違う畑を耕すということは、その条件を把握できず結局は良いものが作れないということにつながる。「いい山をつくろうなんて考えるゆとりはない。指示された通りに最低限の作業をこなすだけだと割り切っている」という伐採業者の気持ちからは、とても良好な山の再生など望めないということが解る。なにより何十年も手をかけなくては物にならない木を毎年違う人が診るなどいう条件では無理に決まっている。ただただ荒れるのを防ぐという一時しのぎということなのだろうか。
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