Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「仕事ばか」

2009-03-30 12:15:10 | つぶやき
 「仕事ばか」といっても「馬鹿」のことではない。わたしたちの時代ではむしろ「馬鹿」をあてて仕事漬けの人間を指して言ったりする。しかし、「ばか」という意味には別の意味もある。松村義也氏の『続山裾筆記』によれば、「仕事のはかどり方を、この辺りでは「仕事ばか」という」らしい。いわゆる「はかがいく」という時の「はか」は計りの意味になる。この「はかがいく」という言葉は今でもけっこう使われる。別に方言でもなく一般的な言葉なのであるが、実は最近の人たちはあまり使わない。だいたいが仕事を「はか」で捉えることが少なくなったのかもしれない。品質管理された世界では、あまり「はか」を重視しないのかもしれない。

 「いんねえ。みたとこはしゃかしゃかよく動くが、その割にね。そうかと思えば、見たところおうようでいて、結構「仕事ばか」のいく人もいるしねえ。性分だに」と初老を迎える年ごろの主婦たちの言葉を紹介している。動きが多い割には仕事がこなせていない人もあれば、脱談ばかりしてよそごとばかりしているように見えても仕事が終っていく人もいる。ようは「仕事馬鹿」と「仕事ばか」は相反する人間と言える部分がどこかにあるかもしれない。

 「はか」について『大言海』を引用している。「はか(計)―稲を植え、又は刈り、或は茅を刈るなどに、其地を分つに云う語。田なれば、一面の田を数区に分ち、一はか、二はか、三はかなどと立てて、男女打雑り、一はかより植え始め、又刈り始めて、二はか、三はか、と終わる。又稲を植えたる列と列との間をも云う。即ち、稲株と稲株との間を一はか、二はかとか称す」という。もともとは田の区割り、あるいは稲の畝間のことをいう言葉だったらしい。さらに松村氏は「らち」の解説に入る。このあたりでは「追いらち」という稲の植え方の言葉があった。「らち」は前述の「はか」同様畝間のことで、田植えの際に目検討で苗を植えていくことをそう呼んだ。わたしの記憶ではすでに「追いらち」植えはされておらず、多くの家は筋をつけてその筋に沿って植えていた。もちろん今は田植え機になったからそのような植え方はないが、この「らち」という言葉の方が消えてしまった言葉といえる。ところが「埒が明く」の「埒」はこの畝間の「らち」からきているという。知らず知らずに使われている言葉も、けっこう古い時代の名残りだと気がつくと想像豊かになるものである。

 冒頭でも触れたように、今では「馬鹿」をあてて利用されることがほとんどである。この時代の仕事はかつてのように身体を動かして確実に目に見える成果をあげるだけのものではなくなった。はたから見ていても「はか」を見ることができなくなったともいえる。簡単に言えばどれほど無駄なことをしていても、それを揶揄するような他人の言葉に動揺しない、あるいは動揺していたら潰れてしまうような時代になった。「いんねえ。みたとこはしゃかしゃかよく動くが、その割にね」なんていうおおらかでいながら率直に捉えている言葉が懐かしくてたまらない。今ならどう言葉に表せばこんなに楽しく聞こえることだろう、などと思いながら声一つ聞こえない社内で人の様子をうかがうのがせいぜいである。
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