Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

男と女の民俗誌①

2008-10-24 12:37:32 | 民俗学
 『日本の民俗7男と女の民俗誌』(2008/9 吉川弘文館)は、この時代の男女の問題に何らかのヒントを示すことができるだろうか。民俗誌などで捉えられてきた女性は、主婦であった。いや、主婦と言うよりは嫁の民俗と言ってもよいのかもしれない。それは嫁という仕事なのである。子どもがいつまでたっても子どもであるように、嫁もいつまでたっても嫁である。しいて言えばその存在はけして高いものではなく、どちらかというと低姿勢なものであった。そうした嫁の苦労はたくさん聞き取られ蓄積されてきたわけで、民俗で取り上げられる女たちは、たいへん“惨め”なものに映っている傾向が強い。それを払拭するように本書はさまざまな女たちのありようを描いているが、いずれにしても一般に注目されるには今までのイメージが強すぎて難しい。服部誠氏は「恋愛・結婚・家庭」の中で、「結婚と家庭の問題について昔の常識は通用しなくなった。このような状況を迎えたとき、民俗学が何を発信できるかを考えるのが本章の主旨である」と言う。同じことは農村におけるさまざまな部分において言えるだろう。かつての常識などまったく通用しないと思うことは多々ある。しかし民俗学は農村にあって、より身近にそうした変化を察知していたはずなのに、なぜか他人事のように扱っているような気がしてならない。変化もまた民俗と言うのなら、それは学問を装い、問題に対して見て見ぬ振りをしてきたようなものではないだろうか。農業の衰退を察知していながら、実際の農村を理解せずわけのわからない政策や、補助金を撒いた農業担当部署の責任が大きいのに等しい。農村の衰退、都市への流出、女性の社会進出などなどそうした変化の真っ只中で民俗研究者たちは地方に入っていたはずだ。それが地方の画一した世界だけでは人々の生活を網羅したとは言えないと気がついて、さまざまな視点に展開しているが、これまでの地方を集中的に調査をしたにもかかわらず、現在のさまざまな問題にほとんどヒントを与えなかったことを見ると、視点を変えてもただただ学問の継続を視野に入れているだけで、どんな視点にもヒントは与えられないのではないだろうか。もちろんただでさえ民俗学に関わる人間が少なく、低調だと言うのに枠ばかり区切ってもなんら先は見えてこない。

 またまた後ろ視線の前段を述べてしまったが、「男の女の民俗誌」は一般の人たちに読んでもらってもなかなかおもしろい記述が多い。ただ、やはりというか専門家の名前が論文形式に並んでいて、専門書であることに変わりはない。

 さて、前述した部分にもあるが、「常識は通用しない」という表現を念頭にこの本を読んでいると、かつての家とか男と女のこととか基本的な見方は歴史的な過去のものであるという書き振りが目立つ。ようはすでに前代の常識であって、そこから大きな変化をきたしている現在とを比較している視点が強いということになるだろうか。例えば出産や月経のための小屋の暮らしと現在の比較はとても落差が大きい。民俗学が調査する者と話す側の共感の部分に視点を当てているためか、どうしても個人的な物言いが多くなる。とすると物言いをする者もある程度多様な視点が求められるのだろうが、なかなかそれを読み手に、また社会に表現できていないのが現実なのだはないだろうか。先に爆笑問題の太田光が常光徹氏と学校の怪談について対談した際、太田光はこの学問に純粋に頭を傾げていた。太田光らしい問題意識の表現である。くだらないことをやっているものの、それにどういう意味があるのかという部分を素人に解くことができていないということではないだろうか。

 八木透氏は「「つきあい」という観点から見れば、「近代家族」ではプライバシーの名のもとに、必要以上の地域や親族とのネットワークを遮断することができたが、民俗社会においては、地域や親族とのつきあいが重んじられ、その日常的な差配が女性に託された」と述べる。この表現からすると「民俗社会」は明らかに前代の社会という雰囲気が漂う。わたしのように地方にずっと生きているものにとっては、明らかに現在とは隔絶された社会と捉えられ、違和感を持つ。何度も言うが、明らかに民俗学と実際の民俗社会は乖離していると言わざるをえない。

 続く

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