Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

同じ年寄りだから哀れまない

2007-10-25 12:11:07 | ひとから学ぶ
 電車の中が高校生に席巻されていて、そこに年寄が乗ってきても席を譲るという姿をなかなかみない、ということを前にも触れた。高校生ばかりでなく、多くの大人も、なかなかそういう行動を起す人は少ない。優先席と言うのは、年寄りや体の不自由な人のために設けられた窓口寄りの席である。しかし、そうした席以外は譲らなくてもよいという席というわけではない。わたしはまったくの空席状態の空間に乗り込むから、当然のことだが毎日座席に座ってゆける。車掌によってはそんな空席だらけの空間であっても、「座席はモノを置く場所ではありません。座席に荷物を置いている方は膝の上、あるいは網棚の上に置いていただくようお願いします」と何度も車内放送をする。そして車内を循環しては、盛んに荷物を座席の上に置かないようにと注意して歩く。そんな車掌さんはまれであって、ふだんは座席にモノが置かれていることがあたりまえだ。

 混雑するとともに、お年寄が乗車してくることはよくあることだ。しかし、飯田線の場合は、「中央線から」で触れたように、混雑していても空席が必ずある。だからわたしが席を空けるまでもなく、ほどなく空席にたどり着いてお年よりは座ることができる。

 先日、そんな混雑している空間に、おばあさんの2人連れが乗ってきた。2人で座れる場所を見回していたがないようなので、わたしのすぐ横で立って行くようなそぶりがあった。これは「いかん」と思うのだが、わたしは窓側の奥に座っていて、譲ったとしても横に客が座っていることから譲った場合の状況をノロイ頭脳で考えていた。たまたま横に座っているのは高校生だから、高校生に譲ってあげるように促すべきなのか、などと考えているうちに、おばあさんたちは別々に座ることで一致したようだったので、行動を起す必要はなくなった。そう思ったすぐあとのことだ。もう1人乗車してきた年配の方(おじいさんと呼ばれてもよい年代の方)が、自分の横が空いているからといって、場所を変わってやるというのだ。そのとき年配の男性は「同じ年寄りだから哀れまない」という言葉を発した。おばあさんたちはありがたかったから「お礼の気持ち」が頭の中でいっぱいで、この言葉を解釈する余裕があったかどうか解らないが、この意味はどういうものだったのか。若者が譲れば哀れみで、年寄りが譲れば哀れみではないということなのだろうか。もしそうだとすれば、この言葉を発した年配の方にとって「譲る」と言う行為と「哀れみ」という行為は、そう変わらないものということになるのだろうか。あくまでも同じ年寄りだから、譲っても他意はない、という意味だったのだろうが、そう捉えても、では同じ年寄りでなかったら何か意味があるのか、ということになってしまって、その場で思いつきで発せられた言葉なのだろうが言葉の奥深さを感じるとともに、そういう言葉が出るという世の中にも哀れみを覚えしまうわけだ。
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