Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

中央線から

2007-10-24 12:34:51 | ひとから学ぶ
 長野発午後6時の電車で帰宅しようとしていたが、不毛な会議が長引いて、同じ方向に帰る同僚に松本電鉄信濃荒井駅まで乗せてもらった。二度目の経験(松本電鉄)を再び、というところだったが、次の電車まで30分以上あるため、松本駅まで歩くことにした。それほど遠くないはず、という認識があったから、松本電鉄の駅にして三つ目の駅まで歩くことになる。市内から上高地へ向かう国道の裏通りのような道を歩いていくのだが、ふだんではあまり見ないような町並みが見える。さすがに田舎の田舎ではないから、風変わりな店がまえの店もあったり、「へー、こんな感じの店もありなんだ」と楽しみながら歩く。約20分という時間であるが、松本駅西口までそんな意外な側面をみながら進む。かつて松本で聞き取り調査をして、さまざまな家々を訪れたが、限られた世界だったと気づかされるとともに、当時と今では心の持ちようがずいぶんと変化している。今、この地域で歩くならまた違った視点でモノが見ることができるような気がする。しかし、なかなかそうした機会もなく、さまざまな余裕もない。

 松本から中央線の電車に乗る。ふだん乗っている飯田線とは違う。まず乗客の数が多いとともに、その乗客数にそれほど変化がない。わが自宅のある地域のように区間によって乗客が激減するということはない。そんな空間で様子をうかがってみる。もっとも違うと思うのは、座席が空いていればその空間で高校生が席巻していたとしても座る人が必ずいる。必ずというのも言い過ぎかもしれないが、大混雑していても空席が目立つ飯田線とは人柄が違うのか、それだけ多様な人がいるのか、定かではない。先日、飯田線でドアの近くに高校生が集中していて、乗客が出入りしづらい状態だったところ、東南アジア系の親子連れの母が車掌に「じゃまだと」注意しろ言う。その通り車掌は高校生に奥に入るように指導していてたが、こんなことは日本人ならまず言わない。とくに飯田線のように他人の様子をうかがうそぶりがうかがえる空間では、そこには駆け引きのようなものが生まれてしまって、人と人との間に空間が必要となる。そんな雰囲気が、松本から岡谷の間にはまったくないのである。簡単に言えば東京の鉄道とそれほど変わらない空気が流れている。対面座席がなく、すべて窓側に一列に座席があったら、空席はほとんどなくなるだろう。ところが飯田線にそんな列車が走っていたら、人が据われない程度に空いた座席が目立つことだろう。その理由にもなるのだろうが、中央線の空間には、一般人の乗客が多いということだ。ようは高校生に乗っ取られたような空間では、空いているという雰囲気がなくなってしまうということなんだろう。

 さて、そんな空間でわたしは飯田線人間のように立っていくことにする。前の座席に座っている看護学生2人は、プリントを手にレポートの話しをしている。そのうちに雑談に変わっていくが、その間手にしたパンを口にしつづける。2人それぞれに買ったパンを、「これおいしい」などといって評価している。今時の人たちは、パンを食べても水物を口にしない、という印象があっだがその通りしばらくは食べ続けていた。食べ終わったら「飲み物は・・・」という声が聞こえて、ようやくバックからペットボトルを取り出す。ずっとそんなやり取りを見学していたら〝怪しい〟おじさんと思われるだろうが、そんなことを思う様子はまったくない。ようは前に突っ立っているおじさんにまったく意識しないのだ。と、そんな2人の姿をずっと眺めている幼顔の女子高生が横にいた。この子もずっと眺めているが、その横でその眺めている子の様子を観察している人がいるとは気づいていない。ところが、その子の様子を見て「何を思ってこの2人の食べている姿を見ているのだろう」などと思っているわたしを眺めている女子高生がいたりして、そちらに目をやると目をそらすのだ。なかなかこんな空間は楽しいものだ。こうして中央線、約30分の空間から解き放れて、ふだんの飯田線に戻るのだ。
コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****