Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

滋賀県の行く末は

2006-07-04 08:13:02 | ひとから学ぶ
 「田中康夫知事が誕生した際の長野の“混乱”が滋賀で再来する可能性もある」と言われるほど、滋賀県知事選挙の結果は、長野県のかつての姿を映しているようだ。嘉田由紀子氏の当選は、予想を越えるものだったようだが、どうも詳しく見ていくとそうでもなさそうだ。現知事の身から出た錆、そんな感じさえする。

 新幹線の新駅建設が焦点であった。事実選挙前の京都新聞の世論調査では、新駅を投票の「基準にする」と答えた人が4割、「しない」と答えた人が2割だったという。栗東駅というからこのごろ市制を敷いた栗東市の票数をみてみる。当選した嘉田由紀子氏が7241票、現職10405票とやはり地元だけに現職が強い。ところがもうひとりの候補者であった辻義則氏が3529票得票している。この辻氏は以前より新駅反対を掲げていた人である。とすると反対票の合計は、10770票と現職を上回る。そなん賛否という形で得票数を比較すると、ほとんどが反対票になる。甲賀市と犬上郡などにおいて現職が上回っている程度である。とすると、そうはいっても栗東周辺では現職の得票は多いが、いわゆる無関係の大都市圏域では、断然嘉田由紀子氏の得票数が多い。

 わたしの予定では栗東周辺は新駅設置賛成の現職票が多く、都市圏域では反対の票が多いというストーリーであった。そう、地元では必要としているのに、無関係の都市住民は反対という図式なら納得できたのだ。そんな図式については、「旧四賀村の夕暮れ」でも同じようなパターンを紹介した。田舎の人口の薄い地域ではYESといっても、無関係な都市部がNOという。そんな現象があちこちで見えてきている。この現象は何を意味するかといえば、格差と関係してくる。この場合の格差とは、人口の格差である。人口の少ない地域の発言力は低下し、結局そうした人々の空間も人口の多い地域の人々に飲まれていく。田舎と都市という対比で言うのなら、田舎は田舎なんだからものを言うな、みたいになっていく。言う資格はないだろう、という具合にだ。

 しかし、滋賀県知事選挙の票読みから見えるものは、そんな図式を期待する以上に現職のやり方が古臭く、説明責任がなしえていなかったことを教えてくれる。わたしの予想通りでなかったことは、裏返せば長野県の行政は改革が進んでいるということにもなるのだろう。ある意味、残念なことである。

 民主党は、地方選挙で自民党との相乗りを見直すと、この選挙結果から述べているというようなことを聞いた。そして長野県知事選挙である。どうも中央の意向が知事選ごときに通じて、民主党は長野県を情けない県にしてしまう首謀者となりうるかもしれない。わたしが民主党が嫌いになったのも、田中康夫を〝次の内閣〟の閣僚に据えた時からだ。どこの政党もぐちゃぐちゃ状態である。が、こと県政はまだまだ生活に密接なる部分が多い。とすればそんな政党の主導権争いを持ち込んで欲しくないわけだ。

 さて、滋賀県の場合も長野県で初めて田中康夫が当選したときと同じような風が吹いていた。行政への不信、知事への不信。そして大規模事業の賛否、そんななかで、辻氏が反対行動で微風を起こし、さらっていったのが嘉田由紀子氏という感じである。「偶然」とはこんなことをいうのかもしれない。

 滋賀県が長野県のようにならないことを、心から祈る。
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