Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

天竜川からみる上下関係

2006-07-25 08:06:04 | ひとから学ぶ
 「上伊那郡における平成合併に思う」の中で、盛んに方向性ということを述べた。そして今までにも郡境域に住む人たちにとっては、中央に住む人たちとは意識が違うということも触れた。合併のことを考えながら、ふだんの暮らしの中で垣間見る地域間意識のようなものを捉えてみると、天竜川流域の特殊性のようなものが見えてくる。先に「南信州とは?」の中で妻のこんな言葉を紹介した。「このあたりの人たちって、喬木村とか豊丘村のことを「しもの方」って言うんだよね。まるで馬鹿にしたように・・・」。「このあたり」とは下伊那郡でも北部である。こういう言葉はこれが初めてではない。似たような言葉は、ここに暮らすようになってから何度か妻は口にしていた。そういうことを言うこの地域の人たちの気持ちも、なんとなくは解る。「何を今更」というおしかり言葉が出るだろうが、そういうことも言ってみたい、その内面は解るのだ。たとえば、かつてある町長の初選挙の折に、地元の町会議員が候補を連れてきてわたしに「対抗馬は川の向こうだから・・・」と言ったのもある意味では同じことなのかも知れない。ただ、同じ地域の首長を目指そうという際にそういう言葉はどうか、と以前にも批判したことがある。そういう言葉が思わず出る背景というものは、地域間の比較という常日頃の気持ちからのものだろう。

 郡境域の人々は、そうでない中央にいる人たちにくらべれば下に見られているという意識がどうしても生まれる。そうでなければ自分の中で納得できないのだろう。そんな意識になることがそもそもレベルの低いことだ、そういってしまえばそれまでであるが、それは現実である。そうでない価値観を持ち、子どものころから育っていれば別だが、「田舎だから」とか「山間だから」とかそんな言葉が出ればどうしても意識として持たざるを得なくなる。そんな時に比較の対象として、同じ中央でない人たちとどこが違うかという意識でものを見始めるわけだ。だからまず位置情報としての「下」というものが一つの比較対照として生まれてくる。「下」は上下関係の下というように捉えて。あくまでも意識的なものであって強いものではないのだろうが、そう捉えてしまうのだ。

 以前このあたりの人のなかには、今でもかつて上伊那郡であったことを意識して、「上伊那は進んでいる」みたいなことを言う、と近所の人に話したところ、「いまだにそんなことを言っているやつがいるからいけない」とかなり怒っていた。その気持ちもわかるが、この意識は子どもの世代、あるいは孫の世代を越えていかないとなかなか消えないだろう。

 さて、上伊那に生まれ育ったわたしとしては、「北へ向うほど都会的な意識にある」と捉えていた。それは自分の生まれ育ったところより南の下伊那のことは抜きにしての話である。生まれ育ったのも郡境であったが、上伊那という枠でものを見ていて、あまり南のことは意識しなかった。そう考えてみると、中心である伊那が最も高いところにあるのではなく、さらに北に向かい、諏訪がもっとも高いところにあるような意識を、どことなく持っていた。そんな意識はわたしだけだったかも知れないが、その後の高校時代に飯田へ通い、そのころ諏訪まで何度か電車で行くたびにそう思ったのだ。天竜川は源が諏訪湖である。しだいに川幅は狭くはなるが、いきなり湖から始まるというあまり例のない大河である。一般的に郡の上下は川上か川下かで言われているが、県内の天竜川をみる限り、川上にいくほど田舎になるのではなく、川上にいくほどに町になり、そしてそこは東京に近い。こんな川と人々の暮らしの配置は、まさしく上下を思わせるには好都合なのだ。加えて諏訪には諏訪神社がある。その諏訪信仰は全国に広がる。御柱祭をみても、その規模はまさしく諏訪神社のある諏訪が大きいわけで、離れるほどに規模は小さくなる。この立地、配置は郡境域という環境による意識によって育まれる上下関係ではなく、天竜川という川が原点にあるように思ったりする。具体的な証明など何もないが、そう思うのだ。
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