Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

上伊那郡における平成合併に思う

2006-07-20 08:04:32 | ひとから学ぶ
 『伊那路』594号の上伊那地域合併特集号に触れて、最後に山口通之氏が「平成の合併の概況とと感じたこと」を書いて、この特集号をまとめている。今でこそ下伊那郡に住み、おそらくそこで臨終まで暮らすことになるであろうわたしであるが、生まれ育ったのは上伊那であることに変わりはない。そうした気持ちを込めて、この上伊那の合併特集からわたしなりの気持ちをまとめておきたい。

 全郡の10市町村による広域合併という大きな枠、そして伊那市中心の6市町村合併と駒ヶ根市中心の4市町村合併というもうひとつの枠、そんな選択が当初からあった上伊那であるが、いかに中心都市へ依存しているか、という事実が合併の判断をする際の大きな要因になったことは確かである。同じ郡内に市がふたつあり、ひとつは郡役所が昔から置かれた伊那市、いっぽうは旧赤穂町に天竜川東岸と現在の宮田村を合併して市制を敷いた駒ヶ根市である。後に宮田村が離村して、駒ヶ根市は全国的にも人口の少ない市として知られるほど小さな市として存続したわけだ。今でこそ他の市が人口減に悩む中、駒ヶ根市は人口増となりかつての「小さな市」というイメージは薄れたが、合併が繰り返される中では、いずれかつてのようなことを言われる時期が来ないとも限らないわけだ。この駒ヶ根市を中心にした4市町村においては、「伊南」という地域名称で行政組合を構成してきた。そんなこともあって広域合併が成立しないのなら、まず行政組合の単位で合併を、という流れであったわけだ。しかしながら、もともと合併しておきながら離村した宮田村においては、駒ヶ根との合併には相容れない住民の比率が大きかっただろう。加えて伊那市と隣接していて、生活における方向性は必ずしも駒ヶ根市ではなく、むしろ伊那市寄りであったに違いない。そんな立地上の観点からも、合併を否定されても致し方ないという条件下にあったわけだ。まさしく宮田村は合併協議会から離脱し、残った3市町村で再び合併協議が進められたわけだが、結局一つになることはできなかった。

 同じように伊那市を中心とした6市町村も、伊南4市町村同様にまとまりきることはできなかった。とくに交通網の発達により、今では伊那以北の住民は、諏訪や松本までが通勤圏内となっており、合併をしなくてはならないほどの危機感が住民にはないはずである。そうしたなかで、山間部を持ち財政的にも厳しい高遠町や長谷村だけが伊那市とともに合併にこぎつけたわけだ。上伊那郡では唯一の合併成婚だったわけだ。

 どちらも中心となりうる都市へ、どれだけ依存しているかということが重要となってくる。一般住民には、県の出先機関がある伊那市が依存すべき第一の都市だとは思っていないはずである。ふだんの暮らしの中での依存度となれば、今や買い物である。「人々の暮らしがどこを向いているか」ということは、大きな選択肢となる。長野市近郊の町村が、いずれはすべて長野市に合併するのではないかとみられている。そして、さらに広域合併を図り、政令指定都市並の合併まで視野に入れざるを得ないほど、この地域は自治体という枠がそれほど大きな意味、あるいは色を出しているとはわたしには思えない(ちょっと言い過ぎかもしれないが)のだ。それは裏を返せば、長野市という大きな枠への依存度が高いということの証明にもなる。同じ環境はほかの地域にはない。松本市を中心とした地域が、今後どれだけ集約されるかは注目できるが、いずれにしても伊那谷のような空間では、まだまだ容易にはまとまりある空間にはなり得ない。

 長谷村を合併した伊那市の肥大化をみれば、そして蝶が羽を広げたような変則的な松本市の合併範囲をみれば、上伊那全郡ひとつでもなんらおかしくない距離感覚である。しかし、それを曲げても、ふだんの暮らしの方向性から育まれた住民感情は、なかなか曲げられるものではないということだ。

 さて、上伊那郡境に育ったわたしにとっては、方向性という視点からみれば、郡枠にこだわることはなく、隣接郡境域がひとつになっても不思議ではないのに、と思うのだが、またそこに方向性というものが立ちはだかるのだ。もちろんわたしも、郡境域の人々の気持ちを理解しない飯田市民に今の段階ではなりたくないし、イエスともなかなかいえないわけだ。
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