Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

草取り

2006-07-02 10:27:17 | つぶやき
 梅雨の季節は草取りの季節である。しかし、そうはいっても雨降りにわざわざカッパを着て草取りとは穏やかではない。なぜならば、そこまでして草取りをするのか、ということなのだ。外で働くという際には、そういうことがつきまとう。当然効率が悪くなったりするから、雨が降ったら仕事を休もう、という職種もある。そんな視点でみれば、雨降りに外の仕事をするということは、その日でないとまずい、とか、雨が降った方がメリットがある、という仕事にほかならない。いや、生産性があればたとえ雨が降ってもやらざるを得ない。

 しかしながら、実は草取りは雨の方がよい。天気の良い土が乾ききった日の草取りは、草が抜けずに土を掘り起こさないと取れない。だから濡れて軟らかくなった地面から草を取るのは容易なのだ。加えて、根が長い草においても、土が軟らかくなっているから〝プッツン〟と切れることなく、〝スルスル〟と抜ける。そんな草取りは〝快感〟である。とくに取っても取っても次から次へと出てくるスギナなんかを取る時には、雨の日が一番である。

 わが家は土の面積が広い。だから1日草取りをしていても、場所によっては10分の1程度しかできない。「取らなければ」と思うのだが、来る日も来る日も〝草取り〟はきつい。自分の中では「この程度で我慢するか・・・」という妥協との葛藤である。そんななか、昨日も、そして今日も時折雨が降るが、「こんな日が一番」と草取りに励む。

 今年は、すべての場所の草取りを成し遂げていない。どうしても人の通る場所を優先しているから、裏側とか見えない場所は後回しになる。そんな後回しの場所へ手が届きそうになると、またまた見えるところの草が伸びていて、そちらを優先してしまう。だから、見えないところは大変なことになっていると思いながらも、そのままになっている。

 草もしばらくそのまま伸ばさせてしまってから取るのと、随時取るのではだいぶ条件が異なる。草丈が長くなっている畑の草を取ると、面積的にはずいぶんはかどる。もともと畑だから土は軟らかい。そこへ雨が湿ってさらに軟らかくなっていれば取りやすい。加えて丈が伸びているということは、その草を取ればその下には草がない。しかし、草の丈か短い段階で常に取っていれば、草の数は多くなる。だからみともなくて(見たところが悪くて)も丈を伸ばしてから取ったほうが草はとりやすい。いってみれば、植林されたスギやヒノキの林の中には草本類があまり生えないのと同じである。日の陰った場所には草の量は少ない。

 いっぽう車の通る場所や踏み固められた場所に生える草は、容易ではない。それなりの草が生えてくる。そんな場所の草取りは、1時間やっていても「これだけしか取れなかっのか」とがっかりしたりする。毎週毎週そんなことの繰り返しである。

 このごろはどこの家の庭をのぞいても、草が生えている。きれいにしてある家は稀である。昔なら〝みっともない〟といってそんなことを気にしたものだが、このごろはどこの家も草が生えているから、それほど気にならなくなった。それでも年寄りがいれば、気になるから草取りをする。それに昔にくらべれば人の庭がよく見えなくなった。これほど塀が家の周りに造られるようになったのは近年のことである。昔なら大地主や親方さまでなければそんな屋敷はなかった。今やみんな囲い持ちの家になって、ますます閉ざされた空間だから気にならない。庭中コンクリートで固められている、なんていうもあるから、そんな家は奇麗なものだ。都市部にいけば土が見えないのだから、大違いである。農村と都市の違いは草との戦いの違いかもしれない。
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