Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

携帯は手鏡か

2005-09-30 08:22:14 | ひとから学ぶ
 長野県第55回写真県展の入選作品が発表された。モノクロの部の推薦(最優秀)にあがった「メールごっこ」は、いかにもこの時代を映している作品である。友だち同士が接近して携帯のメールを打ち合う姿である。わたしは、このごろ通勤は自転車、赴任先から自宅へは自家用車、それも田舎と高速しか走らない。だから、なかなか人の集まっている空間に接しないこともあって、携帯を持ってなにやらキーを打っている姿はあまり見ない。しかし、長野へ来る以前は、車で通勤していても、信号待ちで携帯とにらめっこをしている人の姿を毎日のようにながめていた。今では珍しくもないし、周りの人も気にしなくなったが、わたしのように古い人間には、そんな光景が滑稽でしかたない。
 数日前、夜9時過ぎまで職場にいて、市内を自転車で帰宅したところ、信号待ちでそんな光景に出くわした。一人ぐらいならなんとも思わなかったが、闇の中で3人ほど、それも皆女性が携帯に見入っていた。闇の中だから、携帯のディスプレイが浮き上がっている。初秋の蛍である。駅とか、バス停とか、そんな待合室なんかに入って、あちこちで携帯をいじっている光景を見ると、なんともいえない空気を覚える。そんな光景も嫌で、ただでさえ人なかに入りたくないわたしであるが、ますます人の集まる場所には行きたくなくなる。そんな光景でもとくに気になるのは、女性が(若い人もおばさんも)携帯を手に持っている姿はいただけない。だいたい、顔の正面に携帯をもっていき、まるで手鏡で化粧でもしているかのような姿である。もしかしたら、女性ならではのスタイルなのかもしれない。男性なら手鏡を持つということは誰でもするという行為ではないので、携帯をいじっていても、少し姿が異なる。かつてタバコを吸う男性は気にならなくても、女性がタバコを吸っていると気になったのと似ている。女性差別だといわれようが、そう思うことは確かである。そう思う自分は、根っから女性が手鏡を持つこと自体好ましいと思っていないのかもしれない。そもそも、手鏡を人前でのぞくしぐさそのものが、昔は珍しい姿だったのに、このごろは、そんな行為も人前ではばからない。まさしく県展の推薦作も、手鏡状態の小学生の女の子である。
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