かつて、単に「」という言葉を使って差別について触れた文を、民俗学の研究団体の発行する通信に投稿した際、きわめて不勉強で認識の甘さを指摘されたことがあった。被差別問題に認識が薄い地域に育った者、ということでは済まされない過ちであった。しかし、被差別について身のまわりで経験がないと、その認識はどうしても甘くなってしまう。養子に入った彼などは、知らされるまで、まったく被差別は遠い世界のことであったに違いない。転勤した際に、同和対策事業などにかかわったこともあるわたしでも、現実的なところでは認識が甘かったのだから。
被差別については、、などと差別された人々が、いつの時代からか特別な階級で扱われるようになったものといわれ、成立年代は明確ではないという。また、そのいわれ等も正確にはつかめていないともいう。明治期の政府が、積極的にこの対策に踏み込んでいたなら、百年を経過する現在には、そう強くは残っていなかったのではないだろうか。戦後になってその対策を積極的に講じるようになったわけで、なかなかその差別をなくすことは容易ではない。加えて、近年になると、差別は被差別問題のみではなく、さまざまな差別を含めて同和問題として扱ってきたこともあり、被差別問題がぼやけてしまった感もあった。
近在にそうした事例を聞かなかったものの、民俗の調査をするなかで、たとえば長野県南部地域で、具体的にそうした集落が含まれる地域を対象に調査をしたこともあった。地域とのかかわりなど密接な生活を扱うだけに、その扱いに困ったこともあった。また、被差別とは異なるが、オヤカタ・ヒカン制度の色濃い地域で、このことについて調べる機会も最近あった。ここでは、縁談話があると、「調べたか」と親戚から助言されることがあったという。この場合はいわゆる被差別とは異なるものの、周辺地域からは、それと同等な扱いを受けていたともいえる。
どの時代も共通するかもしれないが、人に嫌われる仕事をする集団を、回避する傾向はある。それを特別扱いして、自分たちの地位を確認したがるのも、人間の恥部であるかもしれない。とはいえ、被差別に共通することは、永年にわたってそのレッテルを貼られ、つらい暮らしをしてきたことである。狭山事件がそうした背景にあるといわれるが、同じような問題はわたしたちには見えない(いや見ようとしていないのかもしれない)ところにたくさんあるのだろう。
彼の住む県では、教員の差別発言で上司が糾弾され、糾弾された上司が自殺するというような事件もある。糾弾するほどの内容ではないと思っても、被差別を抱える周辺地域は、安易な言葉一つでも大問題となる。わたしが被差別について触れた文を書いて、過ちをおかしたことがあることは、彼に以前伝えたことがあった。それからというもの、いつかわたしにそのことを話したいと思っていたものの、何年も経過してしまったようで、同級会という席では、詳しく聞くことはできなかったが、改めて彼の住む地域のことも含め、被差別問題の背景や、開放運動における課題について知りたいと思った。