Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

三遠南信

2005-09-20 19:36:43 | ひとから学ぶ
 三遠南信という枠は、昔はなかった地域名称である。その枠を意識せざるを得なくなったのは、三遠南信道といわれる高規格の自動車専用道路が具体化される中で、地域で浸透してきた名称である。そうしたなか、同自動車道は、必ずしも広域な恩恵はなく、長野と浜松を結ぶという印象が強い。文化圏という捉えで、たまたまその地域に共通した芸能や信仰があることから、三遠南信という地域をひとくくりにしてきたが、どちらかというと、道ありきの産物という印象もある。その三遠南信を対象にした印刷物を、飯田市内の書店を訪れるとけっこう目にすることがある。それも、かつては飯田市内を拠点とする出版社が積極的に三圏を対象に発行していたが、このごろは浜松とか県外の出版社が出すものが目立つ。どちらかという、三遠南信という言葉を積極的に使っていたのも、今までは飯田市下伊那地域であったが、最近変わってきたのか、という印象を受ける。しかし、範囲が狭い上に今まであまり使われてこなかった枠だけに、まだまだ地域内はもちろん、地域外に対しては、知名度は低く、加えてこの地域がまったくの山間地域を中心に結ばれていることが、どこか一般には受け入れにくい空間であるという印象をもたれていることも事実である。
 いずれにしても道路が全線開通するまでにはまだまだ時間を要するが、元来こんな道が必要なのか、という疑問も多くあった。自然への影響という部分をみれば、開通してみないとなかなかわからない部分もる。愛知博を契機に、東海環状自動車道が開通し、浜松も前に比べると近くなった。むしろ、お金の必要な大規模道よりも生活道路である国道を整備するのが先ではないかというのが、現実的な話である。その現実的なところを忘れさせるような勢いで「三遠南信」という言葉が流れ出て、文化という名のもとに目くらましをするような行政であったなら、貴重な文化や自然は、思いもよらないところに行き着いてしまうかもしれない。地方新聞である信濃毎日新聞に、「天竜川と生きる」という特集がこのところ週一で掲載されている。三遠南信をテーマにした出版について、きょう掲載されていたが、新葉社の北林さんがいうように、この地域を対象にした出版物には限度がある。採算を考えたら難しい。それでもこの地域名から何かをしようという動きはけっこうある。しかし、わたしたちが、意図的に地域を結ぶ糸につかまろうとしていることに、不安が残る。伊那谷という枠ではなかなか歩調を合わせることができなかった飯田下伊那が、文化というキーワードで県を越えて行こうという気持ちは、長野県内で疎外され気味であったこの地域の選択の一つであったかもしれないが、であるならば、いっそ県を出て、愛知や静岡の枠に合わせていくという大胆な発想も考えてはどうか。
 だいぶ前のことであるが、天龍村坂部で地域起しにがんばっていた関京子さんは、静岡県知事はよく知っているが、長野県知事は知らない、ということを言われた。県境域に暮らす人々にはそうした気持ちが常にあるだろう。それは県境域に限らず、行政区域界には必ずつきまとうわだかまりである。平成大合併は、そうしたわだかまりを押さえるほど大きな波である。その現実の中でも、文化という名のもと、後付けで結び付けようとしてはぐらかされている部分もある。そこで暮らす人々が、自らの中でわだかまりを解消するには、そんな動向がもっとも納得しやすいということもあるからだろう。
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