Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

コピー機の普及

2005-09-21 08:11:01 | ひとから学ぶ
 信濃町での話であった。地元の水利組合の役員が、昭和35年ころ組合で結んだ協定の写しが役場にないかと聞いてきた。しかし、当時は今のようにコピー機があったわけではないから、複製をとっておくということはおそらくないだろうという。今でこそコピーがいとも簡単に行われるようになったが、考えてみればまだ新しいことである。わたしが会社に入ったころは、青焼きといわれるジアゾ式のコピーのことをいわゆるコピーといっていた。これは現在でも青焼きとして、図面などの複製には使われているが、一般の人たちにはすでになじみのないものとなってしまった。もちろん当時はカーボン紙なるものもよく使われたもので、文書を複数残したいときにはよく使われた。このごろは銀行や郵便局に行っても、こうしたカーボン式の様式に記入するということは少なくなった。
 会社に入った30年近く前は、活字にする文書はタイプであった。漢字を拾って打っていくもので、女性がそうした仕事をしてくれた。文字がないと、作ってもらうという、手間と時間のかかる仕事であった。それでもいわゆる現在のようなコピーがなかったわけではなく、ようやく会社などでも入り始めたころで、高価なイメージがあって、大量にコピーするとか、あるいは安易にコピーするという気軽さはなかった。まだ高校生のころ、東京の知人が訪れた際、地元の図書館に一緒に行った。その際、知人が図書館でコピーさせてもらえないですか、と聞いたのであるが、当時の地元の図書館には、前述したジアゾ式のものしかなく、図書館の方も、コピーというと、ジアゾ式のものと認識していたことがあった。東京でも昭和40年代になるとけっこう今のようなコピー機が出始めていたようであるが、田舎ではまだまだどこにでもあるというしろものではなかった。長野県のような田舎で一般の人たちがコピーを身近に感じるようになったのは、コンビニエンスストアー(長野県ではセブンイレブンの広まりが早かった)でコピーサービスが10円でできるようになってからのような気がする。
 個人的に本などの必要部分を写したいと思うことは、子どものころからあったが、当時はコピーという言葉もなく、手で写すというのが当たり前であった。今でもそのころのノートが書棚にあるが、きたない字ながらよく書いたなーなんて改めて思うものである。その後ガリ版(謄写版)を購入して、一時はガリガリと日々やっていたことを思い出す。教員でもないのにガリ版を使う人は、そうはいなかった。そんなこともあって、コピー機が身のまわりで普及し始めると、コピー機がほしくてしょうがなかった。会社に入って給料をもらえるようになって間もないころ、当時10万円くらいしたのだろうか、湿式のコピー機を購入した。湿式といってもわかりにくいだろうが、コピーしても少し濡れているのである。時間が経過するとともに変色し、字が見えなくなってくるという欠点があったが、それでも手で写すことにくらべれば格段の違いがあった。
 時代は変わったものである。しかし、30年もたてば当たり前か、とも思ったりする。鎖国していた日本が明治維新後、30年程度で世界へ出て注目を浴びるようになっていたというのだから、その当時に比べれば変化は遅いのかもしれない。
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