Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

格差と妬み

2005-09-04 08:55:22 | ひとから学ぶ
 ものは考えようだが、人はそうはみてくれない、そんなことがよくある。このごろの暮し向きの格差は、報道されるまでもなく感じられる。田舎ではそれほどでもないと思いがちだか、意外に進んでいたりする。都会にいたっては歴然としてくるのだろう。総選挙の争点は郵政改革だというが、だだそれだけの判断で、独裁傾向にある自民政権が勝利をしてしまってよいのだろうか。とはいえ、他の政党も同じである。ここ数年のさまざまできこどは、低所得者に対して厳しい。負担をさせて国を守る意図はわかるが、結局は金と力に流され、格差が広がる。その格差を解消できる可能性が見えてこないからこそ、若者に活力がなくなる。連鎖反応は高年齢層にまで広がっていく。
 解散時には自民敗戦の声もあったが、いまや勝ち組のようである。よくわからないのが、同じ政党なら同じ判断をしなくてはならないのだろうか。法案とはよく審議されてのもので、それに対して解散せざるを得ないほど反対票があるということは、そこに利害だけではなく、国民の中にもさまざまな意見があることは見えてくる。そうした重要な問題であっても、いつまでもやっていたら改革が成し遂げられないからといって強行し、同じ党派なのに反対した人は制裁を加える、という考えは、正しいのだろうか。自民党というひとつの政党に席を同じにするのなら、一枚岩でなくてはならないのか。不勉強でよくわからないが、いずれにしても、落下傘候補といわれる刺客があまりにも目立っている選挙に、まさしく格好だけで人を選択する、この国の不幸が見え隠れする。例え落選したとしても、比例区の掲載順位を高く設定される刺客も多い。地道なこれまでの理論などいとも簡単に破棄される、それを国を動かす政治家がやっているのだから、負け組みあるいはその近辺にいる人々は、活力を失うのは無理もない。刺客から逃れて立候補しない年寄りもいるが、いずれにしても落下傘のごとくやってきた候補は、地元への貢献度や認識は極めて低い。これからの政治は、地元貢献形ではなく、地方にいて国政をかたる形なのだともいう。それなら選挙区も比例区もなく、一つにしてしまえばよい。ある落下傘候補がこういう。「わたしはサラリーマンの家庭に生まれ、サラリーマンの実情をよくわかっている」と。このごろの政治家は、地方にあってもかつてのように農家の生まれという人はいなくなった。地方の何が語れるのだといいたくなるいっぽう、それでいいのだというのが今の流れなのである。こうしてみてくると、農業の衰退は、さらに進むことは明らかである。
 このごろは暮らし向きの格差のせいだろうか。妬みのような空気が田舎にも流れる。「ものは考えよう」という感覚で、格差は格差で仕方がないと割り切り、暮らし振りを質素に、いわゆるスローライフ風(この風というのが重要)に暮らそうと思っていると、まだその感覚になく、今までの流れで暮らしながら、政治に期待している人々に妬まれているように思うことがよくある。暮らしに余裕があるのではないか、そう思われがちである。こちらは至極質素にと思っているのに、そうは人は見てくれないのである。隔絶した辺地でひそかに暮らす人々の気持ちがわかるような気もする。
 文明国アメリカのカトリーナ被害。格差が生んだ被害であり、大国アメリカってこんなもの?。という姿をまざまざ見せている。これって発展途上国の映像じゃないかと錯覚さえ覚える。日本の格差は、いつかこんな映像を流すことのないようしてほしいものである。
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