東方不敗の幻想

インターネットのジャーナリズムについての覚書

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生きること

2007-12-08 02:39:04 | Weblog
他人を憎むのにも資格がいると私は思う。
そうであるべきだ。
私は、誰かを憎む資格がない。
憎むにたるだけのなにがしかをしていない。

土漠に水を引き、耕地をよみがえらせる人は、
それを阻む者を、あるいは無理解な者を憎む資格がある。
そういう人ほど憎しみをあらわにはしないけれど。

ただ、言葉をひねくりまわすだけの人間に誰かを憎む資格はない。
同じように言葉をひねくりまわす人間を相手にだって。

なぜならその憎しみはウソで。そこにはまっていけば、ウソの感情の中で、
おしばいを続けて、生きるための大切なことをみんな置き去りにしてしまう。

昔、もっと若かった頃、
「自分を激しく憎む人」を見て、決してああはなりたくないと思った。
つらいだけに思えたからだ。
けれど今になってみれば、自分に憎しみを向けられない臆病者であるのが、
想像していたよりずっと悪いことに思えてきた。

自分をまっすぐに憎めない人は、周りにうわべだけの憎しみを向ける。
そうして感情を「消費物」に変えてはき出し、ときには商品として提供する。
やがて枯れ果て、みにくくよじれた燃え殻だけが、もはやウソとまことの区別もできずに、ウソの感情をたれながし続ける。

一方、自分をまっすぐに憎む人は、しばしば自殺する。
でも場合によっては、憎しみに駆られて自分を変えようとする。
そうして、自分を変えてもなお憎むのをやめない人だけが、
真剣に、ウソではなくまことの感情で、他人を、社会を憎み、
そして行動を始める。恐るべき行動を。

私は、どちらでもない。
私の内なる憎しみは火勢が弱いから、やがては消えるだろう。
それがあまり幸せだとは、もう思えない。