疲れたなあ。同じ話がぐるぐるぐるぐると続いて。
江戸時代の藩は怪しいって何度も書いてるけど、伊勢神宮の内宮は内藤氏と関係あるのか知らないけどさあ。
宮崎県にあった延岡藩は廃藩置県の頃は内藤氏が藩主で、延岡藩の内藤氏は延岡藩に来る前は福島県いわき市にあった磐城平藩にいて、いわき市にあった湯長谷藩の藩主も内藤氏だったらしい。本当か知らないけど・・・。
戊辰戦争の頃の湯長谷藩の藩主は内藤政養で、湯長谷藩は奥羽越列藩同盟に加わって新政府と戦い、内藤政養は強制隠居させられ、明治44年(1911年)に亡くなったらしい。湯長谷藩の最後の藩主の内藤政憲は大炊御門家から養子で入った人で、内藤政憲は明治14年(1881年)に家督を譲って隠居して、大正8年(1919年)に亡くなったらしい。内藤政憲の息子の内藤政潔が継いだようだけど、それ以降、わからない。
大炊御門家は大炊御門家信という人が明治維新の頃の人で、大炊御門家信は明治17年(1884年)に隠居して、明治18年(1885年)に亡くなったらしい。大炊御門家信の息子の大炊御門幾麿が跡を継いで、大炊御門幾麿は大正8年(1919年)に亡くなったらしい。大炊御門幾麿の息子の大炊御門経輝が跡を継いで、大炊御門経輝の時に華族制度が廃止になったようだ。
大炊御門家信の長男の大炊御門師前は明治17年(1884年)に廃嫡になり、大炊御門幾麿が大炊御門家を継ぐことになったらしい。ウィキペディアを見ると、祇園での放蕩による借財問題と五辻安仲という人に陥れられたのが理由らしい。大炊御門師前は大正15年(1926年)に亡くなったらしい。
ウィキペディアで調べると、藤原氏は東家と西家と南家と北家に分かれたらしく、その中でも北家が栄えたらしく、藤原北家から五摂家が出てきたようだ。五摂家は近衛家と鷹司家と一条家と二条家と九条家。明治天皇の皇后の昭憲皇太后は一条家の出身で、大正天皇の皇后の貞明皇后は九条家の出身らしい。
昭憲皇太后は一条忠香という人の娘らしい。一条忠香の息子の一条実良は明治時代の前に亡くなったらしい。次の一条家の一条忠貞は醍醐家の人で、一条実良の娘を妻にして一条家に婿養子に入ったらしいけど、離婚問題で訴訟事件になり、醍醐家に戻ったらしい。本当か知らないけど・・・。
次の一条家の一条実輝は四条家から一条家に養子で入った人で、四条隆平という人の息子らしいけど、四条隆平の兄の四条隆謌の息子として育てられたらしい。四条隆謌の四条家が本家らしい。一条実輝は明治16年(1883年)に一条家を継ぎ、大正13年(1924年)に亡くなったらしい。一条実輝は海軍の軍人だったようだ。
次の一条家の一条実孝は大炊御門師前の息子で、一条実孝は明治40年(1907年)に一条家に養子に入り、大正13年(1924年)に家督を継ぎ、一条実孝の時に華族制度が廃止になったようだ。一条実孝も海軍の軍人だったようだ。
藤原山蔭も料理の神様ということになってるらしいけど、藤原山蔭は藤原北家の人で、藤原山蔭は藤原魚名という人の子孫で、藤原魚名の嫡流が四条家らしく、四条家から分かれて明治維新の後に華族になった家もあるようだ。包丁式は高橋氏が執り行ってたらしいけど、藤原山蔭が四条流の包丁式を新たに編み出したらしい。本当か知らないけど・・・。
京都にある吉田神社は平安時代に藤原山蔭が創建したことになっていて、吉田神社では藤原氏の神社の春日大社と同じ建御雷命と経津主命と天児屋根命と比売神を祀っているらしい。吉田神社には神龍社があって、吉田神道の創始者の吉田(卜部)兼倶を祀ってるらしい。
吉田神社にある大元宮は天神地祇八百万神を祀っていて、吉田神道の教義の宇宙軸の現れで、始まりの神の虚無太元尊神を祀り、そこから生まれる八百万の神を祀ることで全国の神々を祀るのと同じらしい。わけがわからないけど、吉田神社のHPを見ると、こんなかんじでいいんでしょうか?。
吉田神社ですか・・・。
火をつけるか
。