東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

柳原

2024-08-09 23:24:48 | 日記
 明治維新の話は嘘の気がするし、明治天皇の前に天皇が日本にいたと思えないって何度も書いてるんだけどなあ。
 
 大正天皇は明治天皇と柳原愛子という女性の息子らしい。たぶんだけど・・・。柳原愛子は昭和18年(1943年)に亡くなったらしい。柳原前光という人の妹が柳原愛子らしいけど、柳原前光は明治27年(1894年)に亡くなったらしい。柳原前光と柳原愛子の墓は東京都目黒区にある浄土宗の寺の祐天寺にあるらしい。祐天寺の山号は明顕山のようだ。
 
 柳原前光の次の柳原氏の柳原義光は柳原前光の息子で、昭和21年(1946年)に亡くなったらしい。次の柳原氏の柳原博光は大原氏から養子で入った人で、柳原博光は海軍の軍人だったらしいけど、柳原博光の時に華族制度が廃止になったようだ。
 
 柳原家は柳原義光の頃から柳原白蓮という人を含め、スキャンダルまみれになってったらしい。柳原白蓮という女性は柳原義光の異母妹らしいけど、白蓮事件というみたいだけど、歌人で結婚していた柳原白蓮は大正10年(1921年)に失踪して恋仲だった男性と駆け落ちしたようだ。
  
 白蓮事件で柳原家は世間を騒がせたということで柳原義光は議員辞職に追い込まれ、「先帝に畑を提供した」とか「やめてやるから金をくれ」みたいな暴言を放ったようだ。詳しいことは、わからないけど、ウィキペディアに、そう載ってる。
 
 明治天皇に畑を提供したんだってさ、柳原家は。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

伊勢

2024-08-09 23:23:07 | 日記
 地獄ですか・・・。
 
 三重県伊勢市に猿田彦神社があって、猿田彦神社のHPを見ると、猿田彦神社には佐瑠女神社があって、天宇受売命を祀ってるらしい。天宇受売命は猿女君の称号を受けたようだ。天鈿女命を天宇受売命と記載してるようだ、たぶん。
 
 猿田彦神社の宮司家の宇治土公家は猿田彦大神の子孫で、宇治土公家は伊勢神宮の式年遷宮の時に心御柱と御船代を作る役目を務めるらしい。インターネットで調べると、伊勢神宮の内宮の社殿の中には心御柱というものがあるらしく、建物の真中にあって、柱の役目をしてないらしい。その上のあたりに伊勢神宮の内宮の御神体の八咫鏡が収められてるらしい。
 
 伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。伊勢神宮の内宮で天照大神を祀ってるのか知らないし、天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど、天皇を信じてる人は地獄に行けばいいのに・・・。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

真言宗

2024-08-09 23:22:16 | 日記
 真言宗が今のようになったのも明治以降の気がするけど、仁和寺の僧が関わってるのんじゃないか?って何度も書いてるんだけどなあ。
 
 真言宗は大きく分けて古義真言宗と新義真言宗があって、新義真言宗では興教大師といわれる覚鑁を中興の祖としているらしい。真言宗智山派と真言宗豊山派は新義真言宗、新義真言宗の中に新義真言宗という宗派があって、和歌山県岩出市にある根来寺は新義真言宗の総本山で、根来寺には覚鑁の御廟があるらしい。
 
 覚鑁は佐賀県鹿島市の出身ということになってるらしく、鹿島市に誕生院という寺があって、覚鑁の生誕地に創建された寺らしい。誕生院は大正2年(1913年)に鹿島藩の最後の藩主の鍋島直彬が再興したらしい。鹿島藩の鍋島氏は鍋島直彬の次は佐賀藩の最後の藩主の鍋島直大の息子の鍋島直縄が大正4年(1915年)に継いだようだ。
 
 真言宗は明治12年(1879年)に政府からの通達で一つの宗派として統一されたらしいけど、明治28年(1895年)に真言律宗の独立が認められ、明治33年(1900年)と明治40年(1907年)に真言宗の他の宗派も独立が認められたらしい。本当か知らないけど・・・。日中戦争の頃の昭和16年(1941年)に政府の宗教政策で真言宗は合同して大真言宗が成立したらしいけど、戦後に大真言宗から独立して今のような真言宗の宗派になったようだ。
 
 和歌山県伊都郡高野町に金剛峰寺があって、金剛峰寺は高野山真言宗の総本山のようだ。高野山の奥の院は真言宗の開祖の空海の御廟のようだ。空海は佐伯氏の出身で、幼名は佐伯真魚というらしい。
 
 空海が高野山の奥の院で生きているという信仰を入定信仰というらしい。高野山の奥の院には、毎日、空海のために食事と服が運ばれてるらしい。詳しいことは知らないけど・・・。
 
 金剛峰寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

京都

2024-08-09 23:21:22 | 日記
 明治維新の話は嘘の気がするけど、明治時代の密教の僧で、一番著名な僧は、この人たちみたいなんだけどなあ。
 
 京都にある仁和寺は真言宗御室派の総本山で、山号は大内山のようだ。仁和寺は明治時代の前は皇族の人が出家して住職を務める門跡寺院ということになってるようだ。
 
 明治以降の仁和寺の門跡はウィキペディアに載ってる。泉智等という僧は明治33年(1900年)から明治39年(1906年)まで仁和寺の門跡を務めたようだ。泉智等は明治41年(1908年)に江戸時代の天皇の菩提寺の泉涌寺の長老になり、大正12年(1923年)に高野派の管長と金剛峰寺の座主に就き、大正13年(1924年)に真言宗連合総裁に就き、大正14年(1925年)には三派合同古義真言宗の管長に就いたようだ。泉智等は昭和3年(1928年)に亡くなったらしい。
 
 次の仁和寺の門跡の土宜法龍という僧は西域やチベットを旅行して密教学研究の基礎を築いたらしい。土宜法龍は明治39年(1906年)から大正9年(1920年)まで仁和寺の門跡を務めたようだ。土宜法龍も金剛峰寺の座主に就いたようだけど、土宜法龍の次の次の金剛峰寺の座主が泉智等らしい。土宜法龍も真言宗連合総裁に就いたようだ。土宜法龍は大正12年(1923年)に亡くなったらしい。土宜法龍は南方熊楠と往復の書簡をずっと続けていたようだ。
 
 仁和寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

京都

2024-08-09 23:20:25 | 日記
 ほら貝ですか・・・。
 
 京都にある醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山のようだけど、醍醐寺は平安時代に醍醐天皇の勅願で聖宝という僧が創建したことになってるらしい。江戸時代の修験道は統制されていたらしいけど、真言系の修験道の当山派の総本山は醍醐寺の三宝院というところだったらしい。本当か知らないけど・・・。聖宝は当山派の開祖とされていたらしい。
 
 醍醐寺には上醍醐と下醍醐があって、山の上のほうに上醍醐といわれるエリアがあるらしい。上醍醐には醍醐水という湧水が湧いてる場所があるらしく、醍醐寺の発祥の地らしい。醍醐寺の鎮守は清瀧権現らしいけど、そばに清瀧宮があるらしい。
 
 醍醐寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか