東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

昭和

2024-08-05 23:57:44 | 日記
 神武天皇の話は嘘の気がするけど、天皇の威厳を高めるために紀元二千六百年なんてイベントをやったのかなあ?。
 
 昭和11年(1936年)に2.26事件があって、2.26事件は陸軍の青年将校の人たちが中心になって引き起こしたようだ。東京に賢崇寺という曹洞宗の寺があるらしく、山号は興国山のようだ。ウィキペディアを見ると、賢崇寺は佐賀藩の鍋島氏の江戸の菩提寺らしい。賢崇寺には2.26事件で死刑になった人たちや自決した人たちの墓があるらしい。
 
 2.26事件の首謀者の1人に栗原安秀という人がいて、栗原安秀の父が賢崇寺に入り、住職だった藤田俊訓という僧と一緒に墓を建立したらしい。栗原安秀の父は佐賀県の出身で、陸軍の軍人だったようだ。藤田俊訓という僧も佐賀県の出身らしい。
 
 2.26事件の時の総理大臣は岡田啓介で、岡田啓介は栗原安秀が率いる部隊に襲撃されたらしいけど、違う人が岡田啓介と間違われて暗殺されたらしい。岡田啓介は福井県福井市の生まれで、福井藩士の息子らしい。岡田啓介は海軍の軍人で、田中義一内閣と斎藤内閣で海軍大臣に就き、斎藤内閣の次に総理大臣になったらしい。岡田啓介は太平洋戦争の戦時中は東条内閣の倒閣のために尽力し、終戦前は総理大臣だった鈴木貫太郎と緊密に動いて和平工作に動いていたようだ。
 
 岡田啓介の次の総理大臣は広田弘毅で、広田弘毅が総理だった時に陸軍の粛清人事が行われ、決起した人たちの処刑が行われたらしい。次の総理は林銑十郎で、次の総理が近衛文麿らしい。第一次近衛内閣の後に平沼内閣と阿部内閣と米内内閣があって、その後に第二次近衛内閣と第三次近衛内閣があって、その後が東条内閣らしい。
 
 第一次近衛内閣の時の昭和12年(1937年)に日中戦争が始まって、第一次近衛内閣では国家総動員法が成立したようだ。第二次近衛内閣では近衛文麿は大政翼賛会の総裁になって、すべての政党が大政翼賛会に合流したようだ。第二次近衛内閣では日独伊三国同盟や日ソ中立同盟が結ばれたらしい。第三次近衛内閣の退陣前にはゾルゲ事件というスパイ摘発事件があったらしい。近衛文麿は太平洋戦争の戦時中は和平工作に動いたり、天皇に上奏文も出したようだ。近衛文麿は太平洋戦争の終戦後にA級戦犯として逮捕される直前に自殺したらしい。
 
 太平洋戦争は昭和16年(1941年)の12月8日に始まって、太平洋戦争の開戦の時の日本の総理大臣は東条英機で、東条内閣は昭和19年(1944年)の7月18日に総辞職して、東条英機の次に小磯国昭が総理大臣になって、小磯内閣は昭和20年(1945年)の4月7日に総辞職して、小磯国昭の次に鈴木貫太郎が総理大臣になって、太平洋戦争の終戦は昭和20年(1945年)の8月15日ということになってる。
 
 昭和10年(1935年)に当時の総理大臣だった岡田啓介が会長になって紀元二千六百年祝典準備委員会が発足したらしく、紀元二千六百年祝典準備委員会は紀元二千六百年祝典評議委員会ができて廃止になり、内閣には内閣紀元二千六百年祝典事務局が設置され、昭和12年(1937年)には恩賜財団紀元二千六百年奉祝会ができたようだ。それに合わせて橿原神宮の整備が進められていったらしい。
 
 昭和15年(1940年)の年初には橿原神宮からのラジオ中継が行われ、2月11日の紀元節には橿原神宮では紀元二千六百年奉祝紀元節記念大祭が行われ、日本各地の神社でも大祭が行われ、11月10日には紀元二千六百年式典が皇居外苑で盛大に行われたらしい。この年には紀元二千六百年を記念した美術展覧会や天覧武道大会や児童唱歌大会や吹奏楽競演会なども行われ、日本各地の都市や東京や大阪の百貨店で展覧会が行われたらしい。記念切手も発売されたらしい。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

お祓い

2024-08-05 23:53:56 | 日記

宇佐

2024-08-05 23:49:37 | 日記
 嘘八幡被害者の会ですか・・・。
 
 鹿児島県霧島市にある鹿児島神宮は大隈国の一宮で彦火火出見命を祀っていて、正八幡宮や国分正八幡や大隈正八幡ともいうらしく、全国正八幡の本宮らしい。鹿児島神宮のHPに、そう書いてある。
 
 鹿児島神宮は霧島市の隼人町にあるらしいけど、インターネットで調べると、霧島市では隼人浜下りという祭りが行われるらしく、鹿児島神宮から行列が出発して、隼人塚に寄り、隼人港の近くの八幡屋敷というところまで行くらしい。隼人港では放生会が行われるらしい。
 
 九州南部には弥五郎どんの伝説があるようだけど、奈良時代の九州には隼人と呼ばれる人たちがいて、大和朝廷と戦った隼人のリーダーが弥五郎どんという説が有力らしい。本当か知らない。弥五郎どんの祭りは宮崎県都城市にある円野神社(的野正八幡宮)と宮崎県日南市にある田ノ上八幡神社と鹿児島県曽於市にある岩川八幡神社で行われるようだ。

 八幡宮の総本宮の大分県宇佐市にある宇佐神宮では応神天皇と神功皇后と比売大神を祀っていて、応神天皇は神功皇后の息子で八幡大神ということになっていて、応神天皇は誉田別命というらしい。比売大神は宗像三女神ということになってるらしい。
 
 宇佐神宮の奥宮は御許山というところにあるらしく、大元神社という神社があって宇佐神宮の奥宮と大元八坂神社があるらしい。宇佐神宮の境内にも八坂神社があるらしい。
 
 宇佐神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

宮崎

2024-08-05 23:40:52 | 日記
 天皇が自分から嘘を認めるってことは無いみたいだからなあ。今の天皇は天皇を演じてるだけってかんじ。
 
 宮崎県西臼杵郡高千穂町には天岩戸神社があって、西本宮は天岩戸といわれる洞窟が御神体らしい。天岩戸神社のHPを見ると、西本宮は大日霊尊を祀っていて、東本宮で天照大神を祀っているらしい。大日霊尊は天照大神の別名らしい。天岩戸神社の近くには天安河原というところがあるらしい。
 
 福岡県田川郡添田町にある英彦山神宮では天忍穂耳命を祀ってるらしい。天忍穂耳命は天照大神の息子で、日子山の日子が彦になって、英の字が付けられて英彦山になったらしい。本当か知らないけど・・・。天忍穂耳命は正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命というらしい。
 
 天忍穂耳命の息子が天降りしたニニギノミコトで、ニニギノミコトから彦火火出見命とウガヤフキアエズと続いて、ウガヤフキアエズの息子が初代天皇の神武天皇ということになってるらしい。
 
 初代天皇の神武天皇は日向の出身ということになってるらしく、宮崎県宮崎市に神武天皇を祀る宮崎神宮があるらしい。神武天皇の幼名は狭野命というらしいけど、宮崎県西諸県郡高原町には狭野神社があるらしい。
 
 宮崎神宮のHPを見ると、明治以前は神武天皇宮や神武天皇社だったらしく、明治6年(1873年)に宮崎神社になり、明治11年(1878年)に宮崎宮になり、大正2年(1913年)に宮崎神宮になったらしい。明治31年(1898年)に二条基弘と佐土原藩の島津氏の島津忠亮と海軍の軍人の高木兼寛が中心になって神武天皇御降誕大祭会が組織され、全国から寄付を募って境内の整備を行い、明治40年(1907年)に施工したらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 宮崎神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

添田

2024-08-05 23:38:10 | 日記
 神社の人たちが自分たちから嘘を認めるってことは無いみたいだからなあ。
 
 福岡県田川郡添田町にある英彦山神宮では天忍穂耳命を祀ってるらしい。天忍穂耳命は天照大神の息子で、日子山の日子が彦になって、英の字が付けられて英彦山になったらしい。本当か知らないけど・・・。天忍穂耳命は正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命というらしい。
 
 天忍穂耳命の息子が天降りしたニニギノミコトで、ニニギノミコトから彦火火出見命とウガヤフキアエズと続いて、ウガヤフキアエズの息子が初代天皇の神武天皇ということになってるらしい。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 西園寺公望は徳大寺家の出身で、徳大寺実則という人は兄らしい。高千穂宣麿という人は徳大寺実則の息子で、徳大寺家から高千穂家に養子に入ったらしい。高千穂家は英彦山神宮の宮司家らしいけど、高千穂宣麿は英彦山神宮の宮司になったらしい。
 
 英彦山神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか