東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

真言宗

2024-08-20 23:04:54 | 日記
 真言宗が今のようになったのも明治以降の気がするけど、仁和寺の僧が関わってるんじゃないか?って何度も書いてるんだけどなあ。
 
 真言宗は大きく分けて古義真言宗と新義真言宗があって、新義真言宗では興教大師といわれる覚鑁を中興の祖としているらしい。真言宗智山派と真言宗豊山派は新義真言宗、新義真言宗の中に新義真言宗という宗派があって、和歌山県岩出市にある根来寺は新義真言宗の総本山で、根来寺には覚鑁の御廟があるらしい。
 
 覚鑁は佐賀県鹿島市の出身ということになってるらしく、鹿島市に誕生院という寺があって、覚鑁の生誕地に創建された寺らしい。誕生院は大正2年(1913年)に鹿島藩の最後の藩主の鍋島直彬が再興したらしい。鹿島藩の鍋島氏は鍋島直彬の次は佐賀藩の最後の藩主の鍋島直大の息子の鍋島直縄が大正4年(1915年)に継いだようだ。
 
 真言宗は明治12年(1879年)に政府からの通達で一つの宗派として統一されたらしいけど、明治28年(1895年)に真言律宗の独立が認められ、明治33年(1900年)と明治40年(1907年)に真言宗の他の宗派も独立が認められたらしい。本当か知らないけど・・・。日中戦争の頃の昭和16年(1941年)に政府の宗教政策で真言宗は合同して大真言宗が成立したらしいけど、戦後に大真言宗から独立して今のような真言宗の宗派になったようだ。
 
 和歌山県伊都郡高野町に金剛峰寺があって、金剛峰寺は高野山真言宗の総本山のようだ。高野山の奥の院は真言宗の開祖の空海の御廟のようだ。空海は佐伯氏の出身で、幼名は佐伯真魚というらしい。
 
 空海が高野山の奥の院で生きているという信仰を入定信仰というらしい。高野山の奥の院には、毎日、空海のために食事と服が運ばれてるらしい。詳しいことは知らないけど・・・。
 
 金剛峰寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

京都

2024-08-20 23:02:53 | 日記
 滝行ですか・・・。
 
 京都にある仁和寺は真言宗御室派の総本山で、山号は大内山のようだ。仁和寺は明治時代の前は皇族の人が出家して住職を務める門跡寺院ということになってるようだ。
 
 明治以降の仁和寺の門跡はウィキペディアに載ってる。泉智等という僧は明治33年(1900年)から明治39年(1906年)まで仁和寺の門跡を務めたようだ。泉智等は明治41年(1908年)に江戸時代の天皇の菩提寺の泉涌寺の長老になり、大正12年(1923年)に高野派の管長と金剛峰寺の座主に就き、大正13年(1924年)に真言宗連合総裁に就き、大正14年(1925年)には三派合同古義真言宗の管長に就いたようだ。泉智等は昭和3年(1928年)に亡くなったらしい。
 
 次の仁和寺の門跡の土宜法龍という僧は西域やチベットを旅行して密教学研究の基礎を築いたらしい。土宜法龍は明治39年(1906年)から大正9年(1920年)まで仁和寺の門跡を務めたようだ。土宜法龍も金剛峰寺の座主に就いたようだけど、土宜法龍の次の次の金剛峰寺の座主が泉智等らしい。土宜法龍も真言宗連合総裁に就いたようだ。土宜法龍は大正12年(1923年)に亡くなったらしい。土宜法龍は南方熊楠と往復の書簡をずっと続けていたようだ。
 
 仁和寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

京都

2024-08-20 23:02:29 | 日記
 滝行ですか・・・。
 
 京都にある醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山のようだけど、醍醐寺は平安時代に醍醐天皇の勅願で聖宝という僧が創建したことになってるらしい。江戸時代の修験道は統制されていたらしいけど、真言系の修験道の当山派の総本山は醍醐寺の三宝院というところだったらしい。本当か知らないけど・・・。聖宝は当山派の開祖とされていたらしい。
 
 醍醐寺には上醍醐と下醍醐があって、山の上のほうに上醍醐といわれるエリアがあるらしい。上醍醐には醍醐水という湧水が湧いてる場所があるらしく、醍醐寺の発祥の地らしい。醍醐寺の鎮守は清瀧権現らしいけど、そばに清瀧宮があるらしい。
 
 醍醐寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

平群

2024-08-20 23:02:02 | 日記
 料理対決ですか・・・。
  
 大阪府南河内郡太子町にある叡福寺という寺には聖徳太子の御廟があるらしい。叡福寺は上之太子ともいわれ、山号は磯長山のようだ。聖徳太子の妃は膳部大郎女という女性のようだけど、ウィキペディアで調べると、膳氏の出身で、高橋妃とも記されてるようだ。
 
 奈良県奈良市にある高橋神社と千葉県南房総市にある高家神社と栃木県小山市にある高椅神社では磐鹿六雁命を祀っていて、南房総市の高家神社のHPを見ると、磐鹿六雁命は料理の神様で、醤油醸造や調味料の神様らしい。ウィキペディアで調べると、磐鹿六雁命は膳氏の祖で、膳氏の人が高橋氏を名乗ったことになってるらしい。岩手県盛岡市にある盛岡八幡宮にも磐鹿六雁命を祀る高倍神社がある。
 
 奈良県生駒郡平群町にある信貴山朝護孫子寺は信貴山真言宗の寺で、HPを見ると、毘沙門天王の総本山と書いてある。昭和26年に高野山真言宗から独立して信貴山真言宗になったようだ。朝護孫子寺の由緒は聖徳太子の物部守屋討伐の話と関係あるらしく、聖徳太子が毘沙門天を感得して、毘沙門天の御加護で物部守屋を討つことができたらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 信貴山縁起絵巻という絵巻物があって国宝になってるらしいけど、命蓮という僧は醍醐天皇の病気平癒の祈祷をしたらしく、朝護孫子寺の寺号を賜ったことになってるようだ。信貴山縁起絵巻に命蓮の醍醐天皇の病気平癒の話も描いてあるらしい。
 
 朝護孫子寺のHPを見ると、本堂の地下には戒壇巡りがあって、覚鑁上人が毘沙門天から授かった如意宝珠が収められてるらしい。行ったことが無いので、わからない。
 
 朝護孫子寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

平泉

2024-08-20 22:56:40 | 日記
 芋粥ですか・・・。
 
 本当に岩手県奥州市の水沢の出身か知らないけど、斎藤実は第一次西園寺内閣と第二次桂内閣と第二次西園寺内閣と第三次桂内閣と第一次山本内閣と海軍大臣に就き、シーメンス事件で海軍大臣を辞任したようだ。その後に朝鮮総督に就いたようだ。昭和7年(1932年)にあった5.15事件の後に総理大臣に就任し、斎藤実が総理大臣だった時には満州国の承認と国際連盟からの離脱があったようだ。斎藤内閣は帝人事件で総辞職したようだ。斎藤実は昭和11年(1936年)にあった2.26事件で暗殺されたらしい。
 
 ウィキペディアを見ると、子爵斎藤実伝というものがあるらしく、斎藤氏の祖は藤原叙用という人で、藤原叙用は藤原利仁という人の息子で、斎宮頭という官職に就いていたので斎藤らしい。藤原利仁も藤原北家の藤原魚名の子孫で、藤原利仁の子孫の氏族もたくさんあるようだ。
 
 藤原利仁という人と藤原俊仁という人が混同されてるみたいだけど、坂上田村麻呂伝説と似たような悪路王を退治した話があるらしい。御伽草子という書物や平家物語や保元物語や吾妻鏡や義経記に坂上田村麻呂と藤原利仁が似たようなかんじで書いてあるらしい。よくわからんけど・・・。  
 
 岩手県一関市にあった田村藩の田村氏は坂上田村麻呂の子孫ということになってる。戊辰戦争の頃の田村藩の田村氏の田村邦栄は角田石川家から来た人で、石川義光の息子らしい。戊辰戦争の後に弟の田村崇顕に家督を譲ったみたいだけど、明治15年(1882年)に再び家督を継いで、明治20年(1887年)に亡くなったらしい。田村崇顕も角田石川家から来た人で、石川義光の息子らしい。田村崇顕は大正11年(1922年)に亡くなったらしい。次の田村氏の田村丕顕は田村邦栄の息子で、田村丕顕は海軍の軍人で、田村丕顕は昭和20年(1945年)に亡くなったらしい。田村丕顕の息子の田村良顕が継いだようだけど、それ以上わからない。
 
 坂上田村麻呂の征夷の話も嘘の気がするけど、坂上田村麻呂の敵の蝦夷には安倍高丸や悪事の高丸や大嶽丸という人が登場するようだ。東北だけじゃなく、日本各地に坂上田村麻呂伝説があるみたいだけど、字は違っても高丸という人が登場することが多いようだ。三重県の鈴鹿地方にも坂上田村麻呂伝説があるらしく、鈴鹿御前の話があるらしい。
 
 一関市の隣の平泉町に達谷窟毘沙門堂があって、坂上田村麻呂が悪路王を倒したという伝説がある。達谷窟毘沙門堂には達谷西光寺という別当寺があって、達谷西光寺は天台宗の寺だ。坂上田村麻呂の征夷の話も嘘の気がするけど、呪われた人生だったなあ。
 
 達谷窟毘沙門堂ですか・・・。
 
 
 火をつけるか