東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

NINGEN ISU / Before the Dawn(LIVE)〔人間椅子/夜明け前・ライブ映像〕

2024-08-01 23:35:29 | youtube
NINGEN ISU / Before the Dawn(LIVE)〔人間椅子/夜明け前・ライブ映像〕

東京

2024-08-01 23:29:38 | 日記
 日本の夜明けと言った人がいたとか・・・。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 桂太郎は長州藩の出身ということになってるらしいけど、本当か知らない。桂太郎は日清戦争の後に台湾総督に就き、第三次伊藤内閣と第一次大隈内閣と第二次山縣内閣と第四次伊藤内閣と続けて陸軍大臣に就き、第四次伊藤内閣の次に総理大臣に就き、第一次桂内閣では内務大臣と文部大臣を兼任し、第二次桂内閣では大蔵大臣を兼任し、第三次桂内閣では外務大臣を兼任したようだ。桂太郎は大正2年(1913年)に亡くなったらしい。桂太郎の孫の桂広太郎という人が跡を継いだようだ。
 
 西園寺公望は徳大寺家から西園寺家に養子に入ったらしいけど、本当か知らない。西園寺公望は第二次伊藤内閣で文部大臣と外務大臣を兼任し、第三次伊藤内閣でも文部大臣に就いたようだ。西園寺公望は総理を退いた後は元老になって政界で大きな影響力を持っていて、昭和の初め頃は元老は西園寺公望だけだったようだ。西園寺公望は昭和15年(1940年)に亡くなったらしい。
 
 西園寺公望の西園寺家は西園寺八郎という人が継いだらしく、西園寺八郎は長州藩の最後の藩主の毛利元徳の息子らしい。西園寺八郎の息子の西園寺公一は近衛文麿が総理だった時は外務省の嘱託職員や内務省嘱託だったらしいけど、ゾルゲ事件で国家機密をソ連に流していたということで逮捕されたようだ。
 
 山口県にあった長州藩の最後の藩主は毛利元徳で、長州藩の支藩の徳山藩の毛利氏から養子で入った人らしい。毛利元徳は明治29年(1896年)に亡くなったらしい。次の毛利氏の毛利元昭は毛利元徳の息子で、昭和13年(1938年)に亡くなったらしい。次の毛利氏の毛利元道は毛利元昭の息子で、毛利元道の時に華族制度が廃止になったようだ。
 
 東京都世田谷区にある松陰神社では吉田松陰を祀っていて、吉田松陰の墓があるらしい。桂太郎の墓は松陰神社の隣接地にあるらしい。松陰神社は明治15年(1884年)の創建らしい。本当か知らないけど・・・山口県萩市にも松陰神社があるらしく、明治40年(1907年)の創建で、境内には松下村塾の建物もあるらしい。
 
 松陰神社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

北京

2024-08-01 23:28:04 | 日記
 日本の夜明けと言った人がいたとか・・・。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 辛亥革命は1911年から1912年にあって、清が滅びたらしい。孫文は客家の出身で、中国や台湾では孫中山という名のほうが知られてるようだけど、日本に住んでいた時に孫中山という名を使ってたようだ。孫文は初代中華民国臨時大総統で、中国国民党総理を務めたようだ。日本にはアジア主義といわれる人たちがいて、アジア主義の人たちは孫文とも関わりがあって、辛亥革命を支援していたようだ。
 
 中国大陸にあった清は満州の人が建国した国だったみたいだけど、ウィキペディアで調べると、ヌルハチという人が1616年に建国した後金が清になったらしい。ヌルハチという人の次の皇帝のホンタイジという人の時の1636年に元の玉璽を引き継ぎ、一緒にマハーカーラ像も受け取り、国名を大清として皇帝に即位したらしい。マハーカーラはインドの神のシヴァの別名らしく、日本では大黒天らしい。
 
 後金の首都は遼寧省にある瀋陽市だったようだけど、盛京と改称されたらしい。清の首都は盛京から北京に移ったらしい。北京には雍和宮というチベット仏教寺院があるらしい。
 
 雍和宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

チベット

2024-08-01 23:26:11 | 日記
 日本の夜明けと言った人がいたとか・・・。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 桂太郎には、お鯉という妾がいたらしいけど、お鯉は安藤照という女性で、昭和9年(1934年)にあった帝人事件の後に出家して妙照尼と名乗り、昭和13年(1938年)に東京にある五百羅漢寺の住職になったようだ。
 
 東京都目黒区に五百羅漢寺があって、HPがある。天恩山羅漢寺というみたいだけど、明治41年(1908年)に今の場所に移ったらしい。羅漢寺は鉄眼道光の開山らしい。河口慧海は羅漢寺で得度して羅漢寺の住職になったようだけど、河口慧海は日本人で初めてチベットに行ってきたらしい。本当に日本人か知らないけど・・・。
 
 河口慧海は明治30年(1897年)に日本を出発してチベットに行って、明治36年(1903年)に帰国したらしい。河口慧海は大正2年(1913年)から大正4年(1915年)の間に2度目のチベット入りも果たしているらしい。河口慧海はチベットに行って、たくさんの仏教関連のものを持ち帰ってきて、仏教関連の本もたくさん書いてるらしい。河口慧海は大正10年(1921年)には僧籍返還して在家仏教信者になったようだ。河口慧海は昭和20年(1945年)に亡くなったらしい。
 
 多田等観という人は今の秋田市の出身らしく、西本願寺で僧になり、1913年から1923年までチベットにいたようだ。多田等観はダライ・ラマ13世とも懇意にしてたらしい。西本願寺はチベットからの留学生も受け入れていたようだ。
 
 明治35年(1902年)に日英同盟が結ばれたみたいだけど、日露戦争は第一次桂内閣の時の明治37年(1904年)から明治38年(1905年)にあったらしい。
 
 ウィキペディアを見ると、1903年の12月から1904年の9月まで、イギリスのチベット侵攻があったようだ。この頃のインドはイギリス領でイギリスの植民地と化していたようだ。イギリスの軍隊はチベットの首都のラサまで到達し、イギリスはチベットにラサ条約を結ばせたらしい。
 
 チベットは清の保護国だったみたいだけど、この頃は清の影響力が落ちていて、チベット国内でも政治権力争いが続いていたようだ。イギリスのチベット侵攻でダライ・ラマ13世はチベットを脱出してモンゴルと清と亡命し、1909年にラサに戻ってきたらしいけど、ダライ・ラマ13世の英露日への密使を清に知られ、清がチベットに侵攻してきたらしい。ダライ・ラマ13世は今度はインドに亡命したらしい。清は1912年に滅び、ダライ・ラマ13世は1913年にラサに戻ってきたらしい。
 
 ウィキペディアで調べると、ダライ・ラマは1642年にチベット政府の長になって、1959年までチベット政府の長だったようだ。チベットのラサというところにポタラ宮という宮殿があるらしい。今のダライ・ラマは14世のようだ。
 
 ポタラ宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

千葉

2024-08-01 23:23:12 | 日記
 日本の夜明けと言った人がいたとか・・・。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 桂太郎には、お鯉という妾がいたらしいけど、お鯉は安藤照という女性で、昭和9年(1934年)にあった帝人事件の後に出家して妙照尼と名乗り、昭和13年(1938年)に東京にある五百羅漢寺の住職になったようだ。
 
 東京都目黒区に五百羅漢寺があって、HPがある。天恩山羅漢寺というみたいだけど、明治41年(1908年)に今の場所に移ったらしい。羅漢寺は鉄眼道光の開山らしい。河口慧海は羅漢寺で得度して羅漢寺の住職になったようだけど、河口慧海は日本人で初めてチベットに行ってきたらしい。本当に日本人か知らないけど・・・。
 
 ウィキペディアで調べると、江戸時代の初め頃の黄檗宗の僧で鉄眼道光という僧がいて、明から来た隠元が持ってきた大蔵経をもとにして、日本版の大蔵経を刊行したらしい。本当か知らないけど・・・。鉄眼道光の大蔵経は第二次世界大戦前の日本の教科書にも載るほど著名なもののようだけど、誤字が多いらしい。
 
 明治時代にも大蔵経の編纂が行われたみたいだけど、大正13年(1924年)から昭和9年(1934年)の10年間かけて編纂された大正新脩大蔵経が仏教界や仏教研究に大きく影響を与えてるらしい。
 
 大蔵経の中に七佛八菩薩所説大陀羅尼神呪経があって、その中に「妙見」という言葉の説明があるらしい。大蔵経について詳しく知らないけど、仏教の経典などをまとめた仏教の総合書籍みたいなもんなんでしょうか?。
 
 中国では北極星は北辰といって宇宙の中心と考えられていたようだ。中国の道教では北極星が神格化して天皇大帝になったようだ。北極紫微大帝も北極星が神格化して、北斗真君は北斗七星が神格化したようだ。北辰妙見菩薩は中国の道教に由来するらしい。ウィキペディアの妙見菩薩のところに詳しいことが載ってる。
 
 千葉県千葉市にある千葉神社は妙見本宮といってるようだけど、北辰妙見尊星王といって祀ってるようだ。本当に妙見宮だったのか知らないけど、さっさと中国に帰ればいいのに・・・。
 
 千葉神社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか