東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

お祓い

2024-01-12 23:10:38 | 日記

曹洞宗

2024-01-12 22:57:49 | 日記
 石川県ですか・・・。
 
 曹洞宗の大本山は福井県にある永平寺と神奈川県にある總持寺で、總持寺は明治44年(1911年)に神奈川県横浜市に移ったらしい。石川県輪島市には總持寺祖院があるらしい。總持寺の山号は諸嶽山のようだ。横浜に移った時の總持寺の貫首は石川素童という僧のようだ。石川素童は明治38年(1905年)に總持寺の貫首になったようだ。石川素童は大正9年(1920年)に亡くなったらしい。
 
 岩手県奥州市に正法寺という曹洞宗の寺があって、山号は大梅拈華山だ。正法寺は南北朝の時代に創建された寺で、江戸時代の前まで曹洞宗の第三本山で東北大本山だったらしい。本当か知らないけど・・・。正法寺は無底良韶禅師が開いたことになってる。正法寺は今でもお坊さんが修行する寺で、日本一の茅葺屋根の本堂があって、観光ガイドにも載ってる。
 
 奥州市の隣の金ヶ崎町に永徳寺という曹洞宗の寺があって、山号は報恩山だ。永徳寺も南北朝の時代に創建された寺で、永徳寺は道叟道愛禅師が開いたことになっていて、道叟道愛禅師は正法寺の第三世になってる。永徳寺は平成になって再建された本堂があって、広い敷地が広がってるぐらいで、行っても特に何も無い。
 
 曹洞宗では道元禅師を高祖として、瑩山禅師を太祖としているらしい。總持寺は瑩山禅師が開いた寺らしい。總持寺の第二世が峨山禅師で、峨山二十五哲という峨山禅師の高弟の人たちがいて、正法寺を開いた無底良韶禅師は峨山二十五哲の一番目だそうだ。正法寺の第二世の月泉良印禅師は峨山二十五哲の十三番目で、正法寺の第三世で永徳寺を開いた道叟道愛禅師は峨山二十五哲の十六番目だそうだ。
 
 總持寺も總持寺祖院も三宝大荒神が守護神のようだけど、總持寺も總持寺祖院も三宝大荒神の祈祷が行われているようだ。總持寺の第三世の太源宗真禅師が三宝大荒神を祀ったようだけど、太源宗真禅師は峨山二十五哲の二番目らしい。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

曹洞宗

2024-01-12 22:55:06 | 日記
 石川県ですか・・・。
 
 曹洞宗の大本山は福井県にある永平寺と神奈川県にある總持寺で、總持寺は明治44年(1911年)に神奈川県横浜市に移ったらしい。石川県輪島市には總持寺祖院があるらしい。總持寺の山号は諸嶽山のようだ。横浜に移った時の總持寺の貫首は石川素童という僧のようだ。石川素童は明治38年(1905年)に總持寺の貫首になったようだ。石川素童は大正9年(1920年)に亡くなったらしい。
 
 石川素童の次の總持寺の貫首は新井石禅という僧で、大正9年(1920年)に總持寺の貫首になったらしい。新井石禅は福島県伊達市の梁川町の出身らしく、梁川町にある興国寺という曹洞宗の寺で出家得度したらしい。本当か知らないけど・・・。興国寺の山号は臥龍山のようだ。HPがある。新井石禅は昭和2年(1927年)に亡くなったらしい。
 
 總持寺は明治時代の前は輪番制といって5つの塔頭から交代で住職を出してたらしいけど、明治時代になってからは独住といって1人の僧が住職を務めているらしい。本当か知らない。諸嶽奕堂という僧が總持寺の独住の第一世らしいけど、ウィキペディアを見ると、山形県鶴岡市にある善宝寺で亡くなったことになってる。
 
 山形県鶴岡市に善宝寺という曹洞宗の寺があって、山号は龍澤山のようだ。善宝寺のHPを見ると、龍王尊祈祷道場とあって、善宝寺は曹洞宗の寺でも祈祷をする寺で、善宝寺では龍王講があるらしく、HPを見ると、明治44年に始まったらしい。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

黄檗宗

2024-01-12 22:47:02 | 日記
 明治維新の話は嘘の気がするけど、清から僧の人たちがまとまって日本に来たとしか思えないんだよなあ。
 
 黄檗宗は江戸時代の初め頃に開かれたことになってるみたいだけど、京都府宇治市にある萬福寺という寺が黄檗宗の総本山で、山号は黄檗山のようだ。黄檗宗は明の様式を受け継いでるみたいだけど、お経の発音も他の宗派と違うらしい。臨済宗と黄檗宗は財団法人が一緒らしいけど・・・。
 
 萬福寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

御室

2024-01-12 22:01:26 | 日記
 真言宗が今のようになったのも明治以降の気がするけど、仁和寺の僧が関わってるんだろうか?って何度も書いてるんだけどなあ。
 
 京都にある仁和寺は真言宗御室派の総本山で、仁和寺は明治時代の前は皇族の人が出家して住職を務める門跡寺院ということになってるみたいだけど、昭和天皇は太平洋戦争の後に出家して仁和寺の門跡に入る話もあったようだ。
 
 明治以降の仁和寺の門跡はウィキペディアに載ってる。泉智等という僧は明治33年(1900年)から明治39年(1906年)まで仁和寺の門跡を務めたようだ。泉智等は明治41年(1908年)に江戸時代の天皇の菩提寺の泉涌寺の長老になり、大正12年(1923年)に高野派の管長と金剛峰寺の座主に就き、大正13年(1924年)に真言宗連合総裁に就き、大正14年(1925年)には三派合同古義真言宗の管長に就いたようだ。泉智等は昭和3年(1928年)に亡くなったらしい。
 
 次の仁和寺の門跡の土宜法龍という僧は西域やチベットを旅行して密教学研究の基礎を築いたらしい。土宜法龍は明治39年(1906年)から大正9年(1920年)まで仁和寺の門跡を務めたようだ。土宜法龍も金剛峰寺の座主に就いたようだけど、土宜法龍の次の次の金剛峰寺の座主が泉智等らしい。土宜法龍も真言宗連合総裁に就いたようだ。土宜法龍は大正12年(1923年)に亡くなったようだ。土宜法龍は南方熊楠と往復の書簡をずっと続けていたようだ。
 
 仁和寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか