東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

真言宗

2024-01-12 22:00:27 | 日記
 真言宗が今のようになったのも明治以降の気がするけど、仁和寺の僧が関わってるんだろうか?って何度も書いてるんだけどなあ。
 
 真言宗は大きく分けて古義真言宗と新義真言宗があって、新義真言宗では興教大師といわれる覚鑁を中興の祖としているらしい。真言宗智山派と真言宗豊山派は新義真言宗、新義真言宗の中に新義真言宗という宗派があって、和歌山県岩出市にある根来寺は新義真言宗の総本山で、根来寺には覚鑁の御廟があるらしい。
 
 覚鑁は佐賀県鹿島市の出身ということになってるらしく、鹿島市に誕生院という寺があって、覚鑁の生誕地に創建された寺らしい。誕生院は大正2年(1913年)に鹿島藩の最後の藩主の鍋島直彬が再興したらしい。鹿島藩の鍋島氏は鍋島直彬の次は佐賀藩の最後の鍋島直大の息子の鍋島直縄が大正4年(1915年)に継いだようだ。
 
 真言宗は明治12年(1879年)に政府からの通達で一つの宗派として統一されたらしいけど、明治28年(1895年)に真言律宗の独立が認められ、明治33年(1900年)と明治40年(1907年)に真言宗の他の宗派も相次いで独立が認められたようだ。日中戦争の頃の昭和16年(1941年)に政府の宗教政策で真言宗は合同して大真言宗が成立したらしいけど、戦後に大真言宗から独立して今のような真言宗の宗派になったようだ。
 
 高野山真言宗は明治33年(1909年)に真言宗高野派として独立したらしい。真言宗高野派は大正15年(1926年)に真言宗御室派と真言宗大覚寺派と合同して古義真言宗となり、金剛峰寺は古義真言宗の総本山になったらしい。古義真言宗は昭和16年(1941年)に真義真言宗と合同して大真言宗になって、昭和21年(1946年)に独立したようだ。
 
 和歌山県伊都郡高野町に金剛峰寺があって、金剛峰寺は高野山真言宗の総本山のようだ。高野山の奥の院は真言宗の開祖の空海の御廟のようだ。空海は佐伯氏の出身で、幼名は佐伯真魚というらしい。
 
 金剛峰寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

醍醐

2024-01-12 21:59:35 | 日記
 ほら貝ですか・・・。
 
 江戸時代の修験道は統制されていたらしいけど、真言系の修験道の当山派の総本山は京都にある醍醐寺の三宝院というところだったらしい。本当か知らない。醍醐寺は平安時代に醍醐天皇の勅願で聖宝という僧が創建したことになっていて、聖宝は当山派の開祖とされていたらしい。醍醐寺は今は真言宗醍醐派の総本山のようだ。
 
 醍醐寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

平群

2024-01-12 21:54:51 | 日記
 物部守屋が聖徳太子に討たれたという話は嘘の気がするけど、ここが怖いんだよなあ。
 
 奈良県生駒郡平群町にある信貴山朝護孫子寺は信貴山真言宗の総本山で、毘沙門天王の総本山といってるらしい。朝護孫子寺の由緒は聖徳太子の物部守屋討伐の話と関係あるらしく、聖徳太子が毘沙門天を感得して、毘沙門天の御加護で物部守屋を討つことができたらしく、聖徳太子が自ら彫った毘沙門天が本尊になってるらしく、秘仏になってるらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 朝護孫子寺の奥の院には汗かき毘沙門天が祀られてるらしく、聖徳太子が物部守屋と戦った時に毘沙門天が現れて物部守屋と戦ったことになってるらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 信貴山縁起絵巻という絵巻物があって国宝になってるらしいけど、命蓮という僧が托鉢に使う鉢を飛ばして、その鉢に倉を乗せて朝護孫子寺まで運んできたらしい。命蓮が醍醐天皇の病気平癒の祈祷をしたらしく、朝護孫子寺の寺号を賜ったことになってるようだ。信貴山縁起絵巻に命蓮の醍醐天皇の病気平癒の話も描いてあるらしい。
 
 朝護孫子寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

弘前

2024-01-12 20:11:26 | 日記
 謎だよなあ。桂園時代って時代が怪しいんだよなあ。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 明治35年(1902年)に八甲田雪中行軍遭難事件があって、陸軍の第八師団の歩兵第5連隊が青森県の八甲田山で遭難したらしい。第八師団は弘前で結成されたらしく、主に東北出身者で構成されていたらしい。ウィキペディアに、そう載ってる。日露戦争は第一次桂内閣の時の明治37年(1904年)から明治38年(1905年)にあって、第八師団は満州に行って戦ってきたらしい。
 
 青森県の弘前市は明治22年(1889年)からあるみたいだけど、ウィキペディアに歴代市長が載ってる。菊池九郎という人が弘前市の初代市長で、明治22年(1889年)から明治23年(1890年)までと明治44年(1911年)から大正2年(1913年)までの2回、弘前市長を務めたらしい。菊池九郎は東奥義塾の創始者で、東奥義塾高校はキリスト教系の私立高校らしい。菊池九郎はプロテスタントの信者だったらしく、弘前バンドにもいたようだ。菊池九郎は東奥日報の初代社長らしい。菊池九郎は第一回衆議院選挙に立候補して当選して、当選9回で、衆議院全院委員長も務めたようだ。菊池九郎は山形県知事も務めたようだ。
 
 菊池九郎の2回目の弘前市長の次の弘前市長は伊東重という人のようだけど、2ヶ月で辞任したようだ。伊東重という人は後藤新平の知人らしい。ウィキペディアに、そう載ってる。
 
 青森県には南北朝の南朝の3代目の天皇の長慶天皇が落ち延びてきた伝説があるらしく、弘前市の旧相馬村の紙漉沢というところに上皇宮があって、長慶天皇の墓所があるらしい。インターネットで調べると、五所川原市や藤崎町や青森市に合併した浪岡町や南部町や新郷村にも長慶天皇伝説があるらしい。
 
 南北朝は南朝の4代目の天皇の後亀山天皇の時に、三種の神器が北朝の6代目の天皇の後小松天皇に渡されて、統一されたことになってるようだ。
 
 幸徳事件というみたいだけど、明治43年(1910年)に明治天皇の暗殺計画を企てた人たちが捕まって、そのことが発端になって、社会主義者や無政府主義者の人たちが明治天皇の暗殺計画とは関係無く、でっち上げ捜査で捕まって処刑されたらしい。
 
 幸徳秋水という人は法廷で、今の天皇は南朝の天皇を暗殺して三種の神器を奪った北朝の天皇じゃないかみたいなことを言ったようだ。南北朝正閏論というみたいだけど、南北朝の南朝と北朝のどちらが正統かみたいな議論になって、国会でも取り上げられ、明治天皇によって南朝が正統ということになったらしい。今の天皇は北朝で続いてるらしい。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

津軽

2024-01-12 20:04:22 | 日記
 疲れたなあ。
 
 江戸時代の藩も怪しいんだけど、相馬大作事件という南部藩士の津軽藩主襲撃事件があったらしい。本当か知らないけど・・・。ウィキペディアに相馬大作事件の話が載ってる。相馬大作は下斗米秀之進という人で、相馬氏の子孫らしい。岩手県北の二戸市に福岡というところがあるけど、下斗米秀之進は福岡の生まれらしい。
 
 相馬大作事件は文政4年(1821年)にあったらしいけど、南部家と津軽家の家格の差だったり、事の発端は戦国時代の末期に津軽氏は南部氏を攻めて南部氏から独立して津軽藩を成立させたことに始まるらしい。津軽氏は、もともとは南部氏の家臣なのか一族なのか大浦氏ということになってるらしい。
 
 津軽藩の最後の藩主の津軽承昭は熊本藩の細川氏から養子で入った人で、大正5年(1916年)に亡くなったようだ。次の津軽氏の津軽秀麿は近衛家から養子で入った人で、大正8年(1919年)に亡くなったようだ。次の津軽氏の津軽義孝は尾張徳川家の分家の徳川家から養子で入った人で、津軽義孝の時に華族制度が廃止になったようだ。
 
 津軽氏の菩提寺は弘前市にある曹洞宗の寺の長勝寺らしいけど、山号は太平山のようだ。大浦氏は弘前に来る前は鰺ヶ沢町にいたことになってるらしく、長勝寺も鰺ヶ沢町から弘前に移ったらしい。本当か知らないけど・・・。長勝寺の前には真っ直ぐ伸びた道路があって、その脇に禅林街といって長勝寺を含む33の曹洞宗寺院があるらしい。明治以降の津軽氏の墓はどこにあるのかわからない。
 
 長勝寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか