東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

前田

2021-05-04 23:58:35 | 日記
 はあ。
 
 曹洞宗の開祖の道元禅師は村上源氏の久我氏の出身で、源通親という人の息子という説が有力で、源通親は久我通親や土御門通親ともいわれるようです。福井県吉田郡永平寺町に永平寺があって、永平寺には道元禅師の廟所があるようです。
 
 村上源氏の本家が久我氏らしいけど、久我氏の分家も明治維新の後に貴族になってるようだ。明治維新の頃の久我家の久我建通という人は一条家から来た人のようだ。
 
 源氏の人たちの信仰する神社は八幡神社。永平寺の鎮守は白山神社のようだし、曹洞宗の寺では白山妙理権現が祀られてることが多い気がするけど、どうなんだろうなあ?。
 
 白山は江戸時代は修験の山で、石川県と福井県と岐阜県に修験寺院があったようだけど、明治時代に石川県白山市にある白山比咩神社が白山神社の総本社になったようです。本当か知りませんけど。白山神社の祭神は菊理姫でいいんだろうか?。
 
 石川県金沢市にある野田山墓地というところに加賀藩の前田氏の墓所があるみたいです。明治維新の話も怪しいんだけど、この人たちも一条なのか久我なのか、この人たちの仲間なんだろうか?。
 
 前田家墓所ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

田村

2021-05-04 23:53:21 | 日記
 忠臣蔵ですか・・・。
 
 明治維新の後に岩手県奥州市の水沢の街には胆沢県庁が置かれたらしい。安場保和という人が大参事という役職に就いたみたいだけど、安場保和は熊本藩の出身で、水沢の地元の少年から選んで仕事をさせてたみたいだ。その中の1人が後藤新平で、後藤新平は安場保和の娘を妻にしたみたいだ。
 
 安場家は熊本藩の家老の家柄で、安場家の祖先は赤穂事件の時に大石内蔵助の切腹の介錯をしたらしい。大石内蔵助は江戸にあった熊本藩の細川氏の屋敷で切腹したことになってるようだ。
 
 赤穂藩の藩主だった浅野内匠頭は江戸にあった田村家の屋敷で切腹したことになってる。
 
 伊達騒動は4代目の藩主の伊達綱村の時にあったみたいだけど、伊達騒動では岩手県一関市にいた伊達兵部といわれる伊達宗勝が土佐に流されたそうです。藩主だった伊達綱村は幼かったので、お咎め無しで、後見人だった伊達兵部が責任を負わされたようです。
 
 岩手県一関市にあった田村藩の田村氏は伊達騒動の後に一関に来たことになっていて、田村藩は伊達藩の中でも一つの藩のような扱いを幕府から受けてたみたいです。
 
 伊達騒動の話も作り話の気がするけど、高知県が怪しいんだよなあ。
 
 一関市にある祥雲寺という臨済宗の寺に田村藩の田村氏の墓所があります。田村氏が本当に明治維新の前に日本にいたのか知らないけど、毘沙門天の呪いは凄まじいなあ。
 
 祥雲寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

島津

2021-05-04 23:45:42 | 日記
 隠れキリシタンですか・・・。
 
 長崎県長崎市にある大浦天主堂は元治元年(1864年)に建てられ、次の年に隠れキリシタンの人が大浦天主堂を訪れたようだ。信徒発見というみたいです。明治維新の後も、日本では、しばらくキリスト教は禁教だったようだけど、明治6年(1873年)にキリスト教の禁教が解かれたみたいです。
 
 浦上四番崩れというみたいだけど、ウィキペディアで調べると、慶応3年(1867年)に長崎県の浦上村にいた隠れキリシタンの人たちが捕まって、流罪になって拷問を受けたようだ。キリスト教の禁教が解禁になるまで流罪や処罰が続いていたようだ。
 
 浦上四番崩れで流された人たちには島根県の津和野町や山口県の萩市や広島県の福山市に流された人たちもいたみたいだけど、どうなんだろうなあ?。
 
 山口県長門市に大寧寺という曹洞宗の寺があるらしく、HPを見ると、大寧寺には大内義隆という人の墓所があるらしい。戦国時代の山口県には大内氏がいたみたいだけど、フランシスコ・ザビエルは大内義隆に会ったみたいです。
 
 大寧寺のHPを見ると、大内氏の人が島津氏の出身の石屋真梁という僧を招いて開山したことになってるみたいです。
 
 鹿児島県鹿児島市に福昌寺という曹洞宗の寺があったらしく、ウィキペディアで調べると、薩摩藩の島津氏の菩提寺だったらしく、明治時代に廃寺になって墓所が残ってるみたいです。福昌寺も石屋真梁が開いたことになってるみたいです。
 
 日本で最初にキリスト教の布教活動をした人はフランシスコ・ザビエルのようだけど、フランシスコ・ザビエルはイエズス会の人で、イエズス会の創設者の一人のようです。ザビエルは鹿児島県に来て福昌寺に滞在してたらしい。
 
 浦上四番崩れの人たちには薩摩藩に預けられて廃寺になった福昌寺に収容された人たちもいたようだ。その人たちは丁寧に迎えられたらしく、民家に住まわされたり、福昌寺で自炊生活をしたりして、内職のような仕事もしてたようだ。ウィキペディアに、そう載ってる。福昌寺跡にはキリシタン墓地があるらしい。
 
 薩摩藩では明治維新の後の廃仏毀釈が凄かったらしく、藩内の寺が全て廃寺になり、全ての僧が還俗させられたようだ。
 
 福昌寺跡ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

近衛

2021-05-04 23:36:45 | 日記
 明治維新の話も怪しいんだけど、結局、権力に執着してる人たちって、主義主張は、どうでもいいんだろうか?。
 
 篤姫で知られる天璋院は今和泉島津家の島津忠剛という人の娘らしい。島津忠剛は薩摩藩の9代目の藩主の島津斉宣の息子で、篤姫は薩摩藩の11代目の藩主の島津斉彬の養子になり、近衛家に養子に行った後に徳川幕府の13代目の将軍の徳川家定の妻になったようです。
 
 篤姫は近衛忠煕という人の養子になったみたいだけど、近衛忠煕も近衛忠煕の息子の近衛忠房も島津氏の女性を妻にしてるみたいだ。
 
 近衛忠房の息子の近衛篤麿という人は外国留学し、政治の世界に進んだみたいです。近衛篤麿の政治思想はアジア主義といわれる人たちと一緒で、そういう人たちと関りを持ったみたいです。近衛篤麿の息子が近衛文麿のようだ。
 
 近衛文麿という人は昭和の初めに3回も総理大臣に就いたようです。第一次近衛内閣では日中戦争が起こったようだけど、日中戦争は昭和12年(1937年)に起こったようです。第二次近衛内閣と第三次近衛内閣では大東亜共栄圏を掲げ、日独伊三国同盟や日ソ中立同盟を締結したようだ。第二次近衛内閣では大政翼賛会の一党独裁を目指したんでしょうか?。第三次近衛内閣の退陣前にはゾルゲ事件というソ連のスパイの摘発事件があったみたいです。近衛文麿は太平洋戦争の後半には和平工作に動いたようだけど、終戦後にA級戦犯に指定され、自殺したみたいです。
 
 近衛文麿の息子の近衛文隆は戦後にシベリアに抑留され、亡くなったみたいです。近衛文麿の娘は熊本藩の藩主だった細川氏の人の妻になったみたいだけど、近衛家は細川氏の人が継いでいて、日本の総理大臣にもなった細川護熙という人の兄弟みたいです。
 
 京都にある臨済宗の寺の大徳寺に近衛家の墓所があるようです。明治維新の話も怪しいんだけど、この人たちが日本を戦争へと導いていったんだろうか?。
 
 大徳寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

イギリス

2021-05-04 23:23:48 | 日記
 明治維新の話も怪しいんだけど、大政奉還は慶応4年(1867年)で、太平洋戦争の終戦は昭和20年(1945年)のようだ。この間は約80年ぐらいというところだろうか?。
 
 後藤新平は本当に奥州市の水沢の出身なんだろうか?。生家もあるけどさあ。
 
 日清戦争は明治27年(1894年)から明治28年(1895年)にあって、日清戦争の後に台湾は日本の統治になって、台湾総督府が置かれたみたいです。昭和20年(1945年)まで台湾総督府が存続していたようです。
 
 それで、今は台湾は中華民国で、中国は中華人民共和国なの?。
 
 ウィキペディアを見ると、後藤新平は台湾総督府の民政長官に就き、インフラの整備やアヘンの撲滅を行ったようだ。当時の台湾では清と同様にアヘンが蔓延してたようだ。
 
 幕末にグラバーというイギリスの商人が日本で武器を売ってたようだけど、グラバーという人はスコットランドの出身のようです。グラバーはグラバー商会という会社を立ち上げたようだけど、ジャーデイン・マセソン商会という会社の長崎代理店として設立したようだ。
 
 ジャーデイン・マセソン商会の設立当初の主な業務はアヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出らしい。ウィキペディアに、そう載ってる。
 
 清では1840年にアヘン戦争があって清はイギリスに負けて、1856年にあったアロー戦争では清はイギリスとフランスの連合軍に北京まで攻め込まれたみたいです。
 
 イギリスですか・・・。
 
 
 火をつけるか