澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

中国、内モンゴルに戒厳令

2011年05月29日 20時07分42秒 | 中国

 中華人民共和国の内モンゴル自治区で遊牧民の反政府抗議行動が起きて、中国当局は戒厳令を発したと伝えられる。
 中国共産党は、「ひとつの中国」という虚構のもとで、モンゴル、ウイグル、チベットなどの少数民族を抑圧、支配している。最近では辺境地域への漢族の移住、学校教育における「普通話」(=北京官話)の強制などの政策を強め、漢族と少数民族とのあつれきが高まっている。
 

中国、内モンゴルに戒厳令か 遊牧民の抗議行動拡大

産経新聞 5月29日(日)17時53分配信

 【北京=川越一】中国内モンゴル自治区で、炭鉱開発に反対していたモンゴル族遊牧民2人の事故死をきっかけに反政府抗議行動が拡大している。国際人権団体、アムネスティ・インターナショナルなどによると、中国当局は29日までに、同自治区の一部に戒厳令を敷いたもようだ。

 同団体が27日に発表した報告などによると、今月中旬、遊牧民1人が石炭を積んだトラックにはねられて死亡。4日後にも1人が車の衝突で死亡した。同自治区では、炭坑開発による大気や水質汚染の深刻化に遊牧民が反発。業者や政府に対応を求めていたことから、事故を装った殺害を疑う声が上がった。

 住民らは23日ごろから、死亡原因の究明やモンゴル族の人権尊重などを求めてデモを開始した。当局が24日に運転手らの拘束を発表した後も抗議行動は激しさを増し、25日にはシリンホト市で、モンゴル族の学生らを中心に数千人が政府庁舎を取り囲むなどする騒ぎが発生。27日には同市郊外で、遊牧民や学生らと治安部隊が衝突し、40人以上が拘束された。

 チベット族やウイグル族による抗議活動が多発する中、モンゴル族居住地での衝突は、中国当局にとっては新たな“火薬庫”となりかねない。遊牧民らの怒りには、石炭採掘など自治区の資源をあさる漢族への反発も見え隠れする。

 それだけに、7月1日に共産党創立90周年を控える中国当局は治安部隊の大量動員やインターネット規制に加え、戒厳令まで発して、少数民族による抗議行動の飛び火を押さえ込もうとしている。

中華文明は一度滅んでいたのだ

2011/02/21 07:23更新

メインフォト
筑波大学大学院教授・古田博司氏 

【正論】

 ◆対中イメージ砕いた3事件

 菅直人首相は最近、中国事情に詳しい財界人を集めて懇談会を開き、日中国交回復40周年にあたる来年に向け、新たな日中関係を再構築することを視野に入れた提言を要請した。これは、2月下旬に日中両政府が外務次官級の戦略対話を行うという方針とも連動、尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件で悪化した関係の改善を図り、首相自らの訪中も探るという、政財界一体の打開策と期待されている。

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記事本文の続き けだし、日本人の中国イメージは、近年の3つの事件により大きく傷ついた。第1は2007年の毒餃子事件であり、日本側に毒混入をなすりつけ、2年後に犯人逮捕を小さく報じ、謝りもしなかった中国側に、日本人は大いに不信感を持った。孔子の言葉を借りれば、「子曰(いわ)く、已(や)んぬるかな、吾(われ)未だ能(よ)く其(そ)の過ちを見て、内に自ら訟(せ)むる者を見ざるなり」(老先生の嘆き。残念だな。私は己の過ちを認め、心の中で己を責めることができる者に出会ったことがないのだ。公冶長篇)である。

 第2は08年の北京五輪開会式である。国際舞台でのCGを使った偽装や口パクによる革命歌曲独唱の擬態など捏造(ねつぞう)が次々と暴かれるにつれ、日本人の多くが唖然(あぜん)とした。「子曰く、朽木(きゅうぼく)は彫るべからず、糞土の牆(かき)は●(ぬ)るべからず」(老先生はおっしゃった。腐った木には彫ることはできない。ぼろぼろになった土塀は上塗りできない。公冶長篇)であろう。

 第3は10年9月の尖閣事件である。民主党政権のビデオ非公開のもくろみを一海上保安官がネット公開という形で打ち砕いた。孔子にいえば、「民、信ずる無くんば立たず」(もし為政者への信頼がなければ、国家も人も立ちゆかないのだ。顔淵篇)である。

 ◆儒教的教養への幻想を排せ

 日本人は中国に対し「四千年の歴史の国」「孔子、孟子を生み、漢字を伝えた文明大国」との尊崇の念を抱いていたのに、これは一体どうしたことか。古い世代を中心に儒教的教養への畏敬は根強いのだが、ついに儒教研究の碩学(せきがく)、加地伸行氏をして「中国のエリート層には孔子や孟子のような仁者が大勢いるはずだなどと、呆(あき)れた妄想をしている人もいますから」(『正論』11年2月号)と忠告せしめるほど、実態とイメージはかけ離れてしまったかに見える。

 しかし、中華文明は夙(つと)に滅んでいたのだと主張する人が日本にはいた。中国文学研究の泰斗、吉川幸次郎博士である。その著作集の14~16巻と26巻によれば、モンゴルの侵略は中華文明の絶滅を意味した。元代では科挙制度が開国から百年あまり廃され、再度開かれたが、漢化ぎらいの宰相バヤンによってまた断たれる。モンゴル人は七面倒くさいことをいう読書人より、実務の才のある吏を重んじた。元では、相当の知識人でも膝を屈して小吏になったという。

 皇帝も6、7代目は特にシナ嫌いで、8代目は科挙を再開したものの、自分は簡単な漢字しか書けなかった。9代目はモンゴル語訳で読書した。13代目は漢字を書くのが好きだったが、大根に彫った字の拓本を近臣に賜(たま)う始末。最後の第15代順帝は漢文の読み書きができたが、モンゴル人でなく漢人との落胤(らくいん)だという異聞もある。

 ◆ひれ伏さなかったモンゴル

 文明の絶滅はまず詩文に表れた。詩人たちは滅びた過去をなぞる。元代は唐詩をまね、水っぽく無内容で無気力な詩を大量に生んだ。次の明代は、安易な科挙を行い、詩人の能力を欠いた知識人が台頭、唐詩のまねごとが排他的になった。最後の清代では、こんどは宋詩が排他的になぞられた。

 他方、元以降は非読書人によるフィクション文学が堰(せき)を切ったように発生する。元の演劇、元曲が作られたが、台詞(せりふ)はたどたどしく、大した描写力もない。言葉を然(しか)るべく並べる頭脳がなく、論理はあらぬ方向へそれる。それが明で伝奇物になり、清では京劇になるが、元代の写実性も明代の叙情的な優雅さも失われていった。

 それでも吉川博士が「水滸伝」の翻訳を試みたのは、文学愛好者としてよりも、文献学者としての興味からだという。唐詩の時代には、日本には「万葉集」という詩集があり、「水滸伝」よりも先に「源氏物語」という小説があり、日本留学帰りの魯迅よりも先に漱石、鴎外という小説家が近代にいたことを、これからも中国人は知ろうとすらしないだろう、と吉川博士は述べている。

 結局、シナ人の「文力」の前に、ついに頭を垂れなかった最も屈強な民族、それがモンゴル人であった。中国以外の地域に広大な領域、ロシアやペルシャなどを支配したモンゴル人にとってみれば、シナ大陸は征服先の一文明圏にすぎないという相対的な見方をしていたからであろう。

 中華文明は、宋代を最後に一度絶滅している。菅首相の懇談会は、文化やスポーツ、芸能などの分野でも「人的交流が非常に重要」と指摘している。ならば、吉川博士の生涯をかけた研究の結論もまた生かされるのではないかと、期待するのである。(筑波大学大学院教授・古田博司)


李登輝氏インタビュー 「中国人に弱みを見せてはだめだ」

2011年05月29日 09時29分23秒 | 台湾

 「台湾の声」より転載。李登輝氏(元・台湾総統)のインタビュー3回目。

 

 

【 中国人に弱みを見せてはだめだ】李登輝元総統 インタビュー(3)

                                       時局心話會 代表 山本 善心

山本:最近グアムに行って米軍基地のトップと会いました。アメリカのステル
スファントム22戦闘機、日本のF15戦闘機がコンビを組んで猛訓練してい
るそうです。アメリカは日本の軍事力、航空技術、パイロットの優秀性は世
界一だと言っていましたよ。中国に見せたいとも言っていました。そうすれば
軍拡をやめるだろうと(笑)。

李氏:それはぜひとも必要だ。

山本:「そうなれば中国は歯が立たないということを理解するだろう」と言っ
ていたのが印象的です。

李氏:そうかもしれませんね。ところで今回北朝鮮が韓国の軍艦を沈めて更
に韓国領を爆撃したでしょう。アメリカは一番大きい原子力空母「ジョージ・ワ
シントン」を黄海にもっていった。そうなれば中共は黙って見ているしかない。
だから、中国人に対しては決して弱みを見せたらだめなんです。日本は外交
で政府が弱みをずっと見せ続けてきたから中国はいい気になっているんです
よ。

山本:ああ、いまのお話、ぜひわが国民に聞かせたいですね。外務省のあ
る職員は『弱みを見せているんじゃなくて、中国の民主化を促進するため
にあえて言いなりになっているんだ!』などと馬鹿なことを言っているようで
す。中国に弱みを見せたらどんどん浸蝕してきます。尖閣が一つの例です
ね。

李氏:たとえば、私の総統選挙1996年のとき、中国はミサイルを撃ち込んで
きた。その後すぐに米国から空母がきました。そしたら中国は黙ってしまっ
たんです。

山本:空母がくるのがわかっていたんですか?

李氏:それはわかりますよ。今だから言えますが、当時日米台で数カ月かに
一度お互いに情勢の交換会議やっていました。ですから三国間の関係は非
常によかったのです。しかし、日本の外務省の連中はびっくりするほどだめ
だったなあ(笑)。

山本:朝鮮戦争のときも第七艦隊が台湾海峡にでてきました。米国が朝鮮戦
争で戦っているときも台湾を心配してくれたんですね。。

李氏:そう。朝鮮戦争があったから蒋介石政権は維持された。その代わり台
湾からもある程度応援にでたのでしょう。


台湾はあくまで「現状維持」だ


山本:70年前もこれからも、アメリカの台湾に対する重要性は変わらないでし
ょう。問題は米国発の「一つの中国」という誤ったシグナルです。中国の軍拡
や挑発を正当化する危険きわまりないものでした。中国の暴走を制止する
には米国は「国と国との関係」と発言すべきです。

李氏:そもそも、シーレーンの中心は台湾なんですよ。「台湾海峡の現状維
持」というのはアメリカが取り出した問題で、この台湾をどう活かすかを台
湾の指導者は考えなくてはいけません。しかし、今の政府はなにも考えてな
い。わかっていないんです。ただ、中国と行き来さえすれば問題は解決する
と思っていますが、それは違う。武者小路実篤の言葉を引用するならば、「君
は君、私は私、だけど仲良くやっていきましょう」ということですよ。


左翼勢力に牛耳られる日本の行政


 いまの民主党も同じ。私は若いころ、唯心論も色々やったけど、唯物論、
マルクスの弁証論はだめ。物と物の関係しか言っていないから。人間の社
会は心と物と、そのうえに神がいる。この考え方が非常に重要です。日本で
はなにかあると右とか左に分けますが、これもよくないと思いますね。右も左
もないんですよ。

山本:残念ですが、今の日本ではそうはいきません。日本社会は、完璧に左
の勢力に牛耳られています。元北朝鮮工作員や元核マル派の流れが大量
に各省庁に潜入し、とくに法制局は完全に牛耳られていると聞きます。つま
り、彼らに日本の行政権力が仕切られていると言ってよいでしょう。当時航空
幕僚長だった田母神俊雄氏が愛国主義者的な発言をしたらその日に更迭さ
れたくらいですから。一方、民主党25人の職員のうち23人は旧社会党系出身
者や一部勢力に牛耳られていると聞きます。鳩山前首相は彼らが書いたも
のを会見で読み上げていただけとも言われ、日本は左翼勢力の天下だとの
見方があります。

李氏:そうですか。かつて日比谷公会堂で坂本竜馬の船中八策について講
演したことがあります。私は明治生まれの官僚を見ているので、そうしてみ
ると今の日本の官僚、総理が無能になっているということですかね。

山本:残念ながらまさしくそう言わざるを得ません。それは国民の大勢が思
う気持ちですが、日本の政治と外交は、国民の気持ちや時代の変化に適応
できないばかりか改革にブレーキをかける勢力がいます。すべてが、先送り
事なかれ主義で何も解決できないんです。


「日本は世界最大の個人資産を生かせる」


李氏:私にいわせると日本は日本銀行が問題です。まず日銀を整理してい
かないといけないと思います。個人資産について言えば、世界では日本が
一番高いんですよ。そういうのをうまく活用しないでバブルがはじけて20年
近く経ってもまだ国民を困らせている。国民の生活はいまのような苦しい生
活じゃなくて、もっと余裕のもてる政策をとるべきだと思います。3%くらいの
インフレ政策で、利息も3%くらいにあげたら年金生活者もずいぶん助かり
ます。このお金は正常な金融システムの中に入ってきますから、日本として
は効果的な対外投資をすることができると思います。

 また日本の政治形態を変えるには「みんなの党」みたいに日本を道州制
のような形で8州に分けて地方に権力を持たせる。そうすると地方が少し強
くなって中央集権が強すぎるのを拡散し、バランスがとれます。それと、日本
はなんでも世襲するのもあまりよくないですね。作家の山崎豊子さんは、考
え方は左翼だけど日本の欠点をよく著しています。「華麗なる一族」とかに
ね。

山本:それはまさしく正論ですね。震災で見せた原発担当の経産省の事後
処理は機能不全でした。右往左往するばかりでいったい何をしていたのか
さっぱりわかりません。

李氏:私から言わせれば、日本で本当にしょうがないのは外務省です。1999
年に起きた台湾の大地震では、当時曾野綾子氏が会長だった日本財団が
すぐ援助に来てくれて、台湾でも非常に強い「捜救総隊」ができました。今回
の東日本大震災では恩返しの意味で、すぐにこの救援隊を派遣すべくずっ
と連絡をしていたのですが、外務省は「受け入れの準備ができていない」の
一点張りでした。結局日本へ行った救援隊の35人は山梨県甲府市にある
NPOの救援隊と共に被災地に行き、大船渡あたりで救助活動をして来まし
た。

山本:あ~、もっとお話ししたいのですが時間です。あらためて今回の震災
でたくさんの義援金を頂き感謝申し上げます。また、たび重なる外務省の非
礼に対し日本国民の一人として申し訳なく存じます。また本日は中身の濃
い本音のお話を頂きましてありがとうございました。

                            


「キッシンジャーが一番悪い」 李登輝元総統 インタビュー(2)

2011年05月27日 11時17分14秒 | 台湾

 「台湾の声」掲載の李登輝氏インタビューを転載します。李登輝氏はこう
結んでいる。

台湾問題は、結局アイデンティティの問題なんですよ。台湾の歴史は長い
間、オランダ、スペイン、鄭成功、清朝、そして、日本の統治時代があり、国
民党そして民主化時代になるわけです。だからこそ、個人が「私は台湾人
である!」といった意識が強く固まれば、たとえ歴史が断続してもそれを超
越できるから心配はありません。「主権は民にあり」。良い総統を選ぶとい
う考え方が人民にあれば台湾はもっとよくなるはずです。」

【キッシンジャーが一番悪い】李登輝元総統 インタビュー(2)

 李氏:総統時代、台湾の貿易を発展させるために私も努力しました。中東に
行っては石油関係、東南アジアでも、例えばオランダが台湾に潜水艦を売る
時「直接売るのはまずい」ということでインドネシアでつくった潜水艦を組み
立ててそこで台湾に売るとか。当時、インドネシアはハビビが副総裁でした
が、農民の所得が非常に低く、農業問題専門の私が問題解決のために政
府の要請を受けて行ったこともあります。タイ、シンガポールにも出かけて行
きましたよ。タイのチェンマイでは、当時アヘンばかり作っていたのを辞めさ
せて、果汁の加工事業を台湾が援助しました。その後、タイに基金会をつく
って、台湾の技術者を活用するという手筈を整えるのにも協力しました。た
だ、そのときは中国の圧力がすごかった。つい何年前までは、日本も私の
日本訪問を反対していましたがね・・・。

山本:台湾が民主化されて21年になりますが、総統時代の12年の間に、
民主化の基軸と価値観がつくられました。今では台湾がひとつの国、中国
とは国と国との関係という流れが定着しつつあります。いくら中国が「一つ
の中国」と言っても、台湾人の大勢は反対で、一党独裁の共産主義・非民
主国家とは一つになれないと馬英九総統も言っています。中国として台湾
政策で一番問題になるのは李登輝時代につくられた民主化が大きな壁に
なっています。国と国の関係、これがまさしく21年経っていまほんとうに根付
いてきたという現実を国際社会が改めて認識しつつあると思いますが。

李氏:私が一番中国で悪いと思うのは中国5千年の歴史というのはほとん
どが皇帝統治で、いまも共産党の一党独裁で独裁政治となんら変わらない
やりかただということです。蒋介石も浙江財閥や夫人の宋美齢など内輪で
財産をつくったり、独裁的にやっていました。昔の政治形態、法統式で、こ
の中心はあくまで大中華帝国なのです。皇帝、内臣、外臣、植民地、朝貢
国となっていて、琉球はそういう目に遭っている。韓国も同様です。台湾だ
けは化外の地だったけれども、その台湾に対して、中国は今一生懸命「一
中」を唱えていますね(笑)。


武力で台湾侵略はできない


山本:中国の度重なる圧力にいったい台湾は今後どうなるのか多くの人が
不安に思っていませんか。

李氏:主体性を持ったらいい!

山本:なるほど、それに台湾は民主国家として、世界とのいろんな経済関係
が密接であり、その力は無視できなくなっていますね。胡錦濤主席も武力で
台湾を侵略するとはひと言もいっていませんから・・・。

李氏:武力での台湾侵略は不可能ですよ!

山本:アメリカもそうはさせないでしょう。台湾は今後とも、年数を経て、ます
ます独立国としての体制を固めるのではないですか。逆に中国はその間ど
うなるかわからない。それより中国の分裂、崩壊が先じゃないですか(笑)。


国民不在の憲法改悪


李氏: 台湾はどの国にも所属しない。いまの政府の「一中」という考え方は、
昔からずっとありましたし、いまの共産党までが、この「法統」という形態をく
り返しています。2006年に行った第七次憲法修正によって、国民投票をや
れない憲法に改悪されてしまいました。党利党益ばかりで台湾全体のこと
など何も考えていないんです。
 日本の小選挙区制の真似をして日本の区域制度を導入し、立法院の人
数を半分に減らすなど、台湾の組織は混乱をきたしています。
 私は、もうこの辺りで台湾人も外省人も区別なく、台湾をひとつにして台湾
人としてのアイデンティティを固め、台湾という国を中心にみんなで一緒にや
ろうと考えています。


台湾の民主政治を曲げた陳水扁


私のあとに総統となった民進党の陳水扁は、台湾の民主政治を曲げてしま
った。その後は逆に馬英九は何もわからず、ただ昔の法統を奉じているだ
けです。彼が総統になった当時、1992年の香港協議で、「92共識」は合意に
達したと言って、事を運んでいるが、この「92コンセンサス」は合意もなけれ
ば、文書化されたわけでもなく存在すらしていません。今の総統は明らかに
人民を騙している。この事実を知っている生き証人は沢山いますよ。


キッシンジャーが一番悪い


 キッシンジャーは「両岸の人民は共にひとつの中国であることを強く主張し
ている」と言い、これを基本にして台湾も中国も押し付けをやっています。
 「一中」市場というのは香港とマカオみたいなもので、香港もマカオも主権
を英国とポルトガルが放棄したからですよ。台湾は台湾人が主権を握って
るわけですから、ECFAに私は大反対です。

山本:台湾の民主化は台湾人による台湾の大改革だったわけですね。「自
由と民主主義、法治と人権」を価値観とする国家に変貌したわけですから、
これだけでも共産中国とは相容れないですね。


様々な矛盾を抱える馬英九


山本:例えば、次の総統選挙で馬英九氏が当選したらどうなりますか。中国
と政治的な話し合いは行わざるを得ないでしょう。中国側は馬さんに何をも
たもたしているんだと催促しているでしょうからね。

李氏:いまの馬さんは台湾を代表するのかという矛盾も抱えています。「私
は台湾を代表できる」と中国に見せつけようとしても、中国は、「台湾の人民
はあんたに反対してるじゃないか」と見られているのです。そうすると彼はで
きるだけ中国の批判をかわそうと、中国に対してリップサービスしようとして、
台湾人を欺こうとしています。

山本:全く同感です。馬総統は本質的に台湾人民を代表する総統ではなく、
台湾を拠点に国民党が中国を吸収する「一つの中国」と考えているようです
が、これは非現実的な政策です。

李氏:私は、いろんな人を通して情報を得ていますが、馬さんを信じたら大
変ですよ。台湾人民が中国に対して妙に悪い感情持つ理由は、中国が馬
さんの言うことを真に受けていろんなことを押し付けてきますが、台湾人民
にはまったくプラスになっていないからです。
 今回の選挙では絶対に馬さんは総統選挙には勝てない! 「馬をおろして
台湾を保護しよう」というスローガンを掲げている。これが私の戦略なのです。


注目の五都市市長選挙


山本:選挙はコピーとキャッチフレーズが勝負を決めると言いますが、台湾人
の主張を世界に発信すべきですね。ところで具体的に次の総統選はどう見
ておられますか。

李氏:馬英九には今後総統を続ける条件が整っていない。五都市の投票総
数は民進党が多いでしょう。今後、馬さんは党内の影響力がなくなって、国
民党の総統候補者として出られなくなる可能性もあります。七月の国民党主
席選挙が鍵です。国民党内部には、対立候補が出てくるでしょう。馬さんは
かつて女性からの支持が高かったが、今では事情が変わってきています。
最も重要な問題は軍隊を退役した人達の大部分が馬さんを支持していない
ことなのです。 次は立法院の選挙です。五都市の選挙は国民党も民進党
も五分五分。民進党の蔡英文氏は、昔私の安全会議に在籍していたことが
ありますが、彼女は民進党が一番調子の悪いときに主席になって、その後
党は上り調子で、最近では補欠選挙でみんな勝っていますよ。この調子でい
けば勝てるでしょう。副総統には経験のあるものをつけることが大事だと思
います。彼女は女性の支持者も多いはずだから、国民党の内部崩しがもし
あれば、調子はいいと思いますよ。 台湾の問題はいまのところ今年の立
法院と行政院と次の総統選挙にあります。簡単にいえば坂本竜馬の薩長連
盟。これがわれわれの考えていることなんですよ。うまくいくかどうかは今年
の7月にもっとはっきりします。

山本:李先生のお話は本音をズバリと話される自由な空気がありますが、こ
のようなお話が出来るのも民主化ならではのことですね。

李氏:昔はこんなことはできなかったからね(笑)。


求められる台湾人としてのアイデンティティ


山本:せっかく李先生が成し遂げた民主化という偉業を途中からねじ曲げよ
うとした陳水扁氏の問題は残念で仕方ありません。

李氏:民進党の人気が暴落したのは陳水扁の汚職が原因です。国民党と
共産党では党の組織、選挙のやり方はまったく違う。民進党はだいたい地
方の組織、選挙組織とか言動とかそういうものがないんです。国民党の組
織がとても堅固で地方の元老に頼っている。一番いい例が高雄です。昔の
高雄市議会の議長の陳さん、市長の王さん、あとの市議会議長の朱さん、
この三人が潰れて、高雄は民進党のものになったのです。

 台湾問題は、結局アイデンティティの問題なんですよ。台湾の歴史は長い
間、オランダ、スペイン、鄭成功、清朝、そして、日本の統治時代があり、国
民党そして民主化時代になるわけです。だからこそ、個人が「私は台湾人
である!」といった意識が強く固まれば、たとえ歴史が断続してもそれを超
越できるから心配はありません。「主権は民にあり」。良い総統を選ぶとい
う考え方が人民にあれば台湾はもっとよくなるはずです。


武田邦彦氏「国を失った日本人」

2011年05月27日 08時04分35秒 | 社会

 武田邦彦氏(中部大学教授・化学)のブログを転載させていただく。

 

 

国を失った日本人(2) 空中分解した国、子供を被曝させる

 

 

ある読者の方から、厚生労働省の「お母さん向けパンフレット」を送っていただきました。

このパンフレットは、厚生労働省が多額の税金を使って大量に配布したもので、データは一切、書いてありませんが「放射線は安全だ、基準を守れば赤ちゃんは安全だ」を繰り返しています。

厚生労働省の中にはお医者さんもたくさんおられ、国民の健康を守るために、「健康ニッポン」などの大がかりなキャンペーンを展開しているのに、実に不思議です.

福島原発の事故が起こってから国は、

1)   外部からの線量の限度を、1年1ミリから1年20ミリにした(内部はわずか2%の査定)、

2)   水の限度を10ベクレルから300ベクレルにした、

3)   食材は魚を含めて急遽決めて、コメも含めて約500ベクレル(キログラムあたり)(魚は2000,コメ500、野菜300など)、

から、少し前のブログに書いたように、

「国を信用して、基準値を守る生活をすると、子供の被曝は1年に50ミリシーベルトになる」

というきわめて過酷な状態になるのです.

でも、このパンフレットのように、厚生労働省はそのデータを示さず、「基準を守れば赤ちゃんを守ることができる」と言っています(悪魔の言葉ではないか?).

本当に国は、1年20ミリとか50ミリで良い、「法律を守っている」と思っているのでしょうか?

・・・・・・・・・

実は違うのです。

 

5月25日、「国」の原子力保安院は、「被曝について法律違反をした」という理由で東電を厳重注意処分にしました。

その理由は、

(1)第2原発で4月21日まで管理区域の設定基準を超える線量が測定されながら、線量管理をしなかった、

(2)放射線業務従事者でない女性5人が、放射線管理の必要な区域で勤務し、うち2人が一般の線量限度である年1ミリシーベルトを超えて被ばくした、

ということです。

そして、

「保安院は、作業員全員が携行できる線量計の確保や、通常時と同様に3カ月に1回内部被ばくの評価ができるよう機器を早期に整備することなど、7項目の改善策を東電に指示した。

 第1原発では地震発生直後から女性計19人が作業に従事。女性の放射線業務従事者について国が定めた被ばく線量の限度「3カ月で5ミリシーベルト」を2人が超えるなど、放射線管理の不備が判明していた。」

と伝えています。

・・・・・・・・・

私たちは国を失いました.税金は払わなくて良いでしょう.そのぐらいの常識は、訴訟になったときに裁判官も理解すると思います.

その理由、

1)   【文科省】 外部被曝だけで1年20ミリまでOK。

2)   【厚労省】 食材も入れて1年50ミリまでOK

3)   【経産省】 1年1ミリを越えると厳重注意

一体、これは何でしょうか?

完全な国の空中分解です。

・・・・・・・・・

このほか、保安院は「日本国の法律」に基づいて、次のように東電に注意をしています.

1)   一般人の基準が1年1ミリということを忘れたのか!

2)   職業人の被曝は1年20ミリ(3ヶ月で5ミリ)ということを忘れたのか!

3)   職業人が働く管理区域では、線量計の携帯、内部被曝の管理が必要だと言うことを忘れたのか!

もちろん、日本では法律は一つですから、福島県や自治体は、

1)   一般人(それも子供)を1年1ミリ以上被曝させている、

2)   管理区域の人に線量計も内部被曝の管理もしていない、

3)   それが現実なら、法律を守る立場から、除染に全力を挙げなければならないのに、限度を上げて被曝させている、

また、練馬区役所(ホームページは改正されたようです)、松戸市などは、「1年100ミリまで大丈夫です」と言い、法律違反をしています.

ある真面目な地方公務員から私に「1年1ミリという法律を教えてください」と依頼が来ました。とても正直で真面目な人なので、この質問は良いのですが、やはり法治国家ですから、国が空中分解していても、公務員は法律を守って欲しいものです。

でも、もう国は無い! 自分で行こう!

(平成23526日 午前11時 執筆)

 


台湾から日本へ復興応援「ずーっとそばに居るよ」

2011年05月22日 11時15分25秒 | 社会

 長らく津田塾大学の教授(政治学)を勤め、台湾の駐日代表(=駐日大使)であった許世楷※氏の奥様である盧千恵氏が、下記のようなエッセイを綴った。

 菅直人首相は、ぜひこれを読むべきだ。各国の支援に対して「困ったときが真の友」と書きそえた菅は、結局、最大の支援国である台湾に対して何の謝意も表さなかった。もちろん、中国に遠慮した結果だ。この奴隷根性と醜い保身。菅は、もう一度自分の言った言葉をかみしめるべきではないか。

※ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%B1%E4%B8%96%E6%A5%B7

 

【盧千恵】台湾から日本へ復興応援「ずーっとそばに居るよ」【産経】

【盧千恵のフォルモサ便り】
東日本大震災の被災者のために
台湾から日本へ 復興応援「ずーっとそばに居るよ」
〔SANKEI EXPRESS 平成23年5月20日〕

 台湾では、今でもよく東日本大震災関連のニュースが流れています。何回見ても、いつ見ても、涙が出ないときがないほど、悲惨な状況が画面に出てきますが、同時に、あー、なんと力強く立ち上がろうとしているのだろうと、心打たれます。

 震災直後、涙をこらえようとしながらこらえきれず、それでも最後まで答辞を述べきった気仙沼市立階上(はしかみ)中学の卒業生代表。日本人は大人だけでなく、15歳の中学生までが、「苦境にあっても、天を恨まず、運命にたえ、助け合って生きていくことが、わたし達の使命です」と述べることができたのは、世界中の人々に感動を呼び起こしたに違いありません。隣国に住む台湾の同じ年頃の学生たちは、そのような姿を見て、「日本の友とともに苦難を」と強く願い、同時に多くを学んでいます。

 ■寄せ書き・募金呼びかけ

 台中市の名所、宝覚寺の真向かいにある、新民高校日本語学科の学生が呼びかけ、書いた寄せ書きの一部です。

 -地震、津波、原子炉、予測できなかった災害が起こった今、わたしは、人類がお互いをもっと大事にし、励ましあい、支援しあうことの大切さを感じています。

 -心が痛くて、悲しくて涙がとまりません。わたし達は皆様の心を暖めますから、寒い中、決してあきらめずにがんばってください。

 -ずーっとそばに居てあげたい、心の傷が癒やされるまで。もっと大きな被害にならないように、お祈りしています。日本的未来-定会更好。

 -ニュースを見ると、心が痛みます。涙がこぼれます。同時にあなた方を尊敬してしまいます。このような天災に会いながらも、規律正しく、天を恨まず、しなくてはいけないことを整然と行っているのをみると、わたし達も見習わなくてはという気持ちが沸き起こってくるのです。

 -「日本人!」この民族は団結の代表選手です。

 -わたしも愛する人を失ったことがあるから、あなたたちの痛みが分かります。絶対にいのちを粗末にしないで生きてください。

 新民高校の赤十字社青少年奉仕グループは、学内募金で集めた50万元(150万円)、学校理事会の寄付金100万元(300万円)と一緒に、寄せ書きを赤十字社台中支部へ届けました。1時間のアルバイト料、お弁当が2つ買える100元を入れてくれた友人たちに「ありがとう」を間断なく言い続けたと、学生が話してくれました。

 大度山台地にある静宜大学では、日本人留学生の呼びかけに日本語学科が応え、ある先生のことばですが、「歩いたり、走ったりして募金を行っていました」。この居ても立ってもいられない気持ちが、大学全体を動かしたのでしょう、「祈福会」を始め、「祈福壁」が作られ、祈りのことばを書き込んでもらっていました。

 台湾キリスト教会国連加盟推進協会の羅栄光牧師は「日本の苦難を分かち合おう」と呼びかけています。1999年9月21日に起こった台湾大震災のとき、赤い制服の日本救助隊が余震の続く東勢地方の倒壊した王朝ビルから、閉じ込められていた被災者を担架で担ぎ出したのを目撃し、涙がとまらなかったと「呼びかけ文」に書いていました。そう、あの時、いち早く台湾に救援隊、救助機械、医療隊、救援金を送り込んでくれた隣国日本の真摯(しんし)な友情を思い出した人は多かったでしょう。

 ■「必ず立ち上がる」

 わたし達が前駐日代表だったということで、大勢の人から「日本は大丈夫ですか?」「発電機が200台集まりましたが、どこへ送ればよいでしょう?」などの電話がかかってきました。駐台日本交流協会の電話はパンク状態だったと聞きました。今、台湾人は手を合わせ、日本の復興を祈り、限りない連帯の思いを寄せていることをお伝えします。

 世界台湾人大会にスピーカーとしてこられた櫻井よしこ先生は、3月20日、冒頭演説を終えられた後、中、南部観光を取りやめ、「人類が経験したことのない3つの苦難に直面している日本」へもどっていきました。「日本国は必ず立派に立ち上がると確信しています。日本人は文字通りこの未曾有の試練を立派に乗り越えなければなりません。わたしはその国家再建の先頭に立つつもりです」ということばを残して。(許世楷(コー・セーカイ)・元台北駐日経済文化代表処代表の令夫人、盧千恵/SANKEI EXPRESS)

[写真]募金活動をする台中市新民高校赤十字社支部の学生隊=3月17日、台湾(盧千恵さん提供)
http://sankei.jp.msn.com/world/photos/110415/chn11041516140002-p1.htm

 ■ロー・チェンフィ 1936年台中生まれ。60年国際基督教大学人文科学科卒業後、国際基督教大助手。61年許世楷氏と結婚。夫とともに台湾の独立・民主化運動にかかわったことからブラックリストに載り帰国できなかった。台湾の民主化が進んだ92年に帰国し、2004年~08年、夫の駐日代表就任に伴って再び日本に滞在。夫との共著に「台湾という新しい国」(まどか社)がある。



東日本大震災 直前2日で250回の地震

2011年05月22日 07時40分51秒 | 社会

 東日本大震災の結果、地震予知などできるはずはないという声が専門家の間からも聞かれるようになった。

 地震研究は、そもそも特定大学(旧帝国大学)で「国策」として研究された分野だ。地震予知連絡会で、特定地域の危険性が論議されたとしても、社会的影響力を考えれば、そう簡単には公表を決断できない。誰も責任をとれないから、発表もできないという悪循環に陥っている。

 だが、素人でもなるほどと思う情報が、21日の「毎日新聞」に載った。大震災の前の二日間(3月9・10日)に250回もの地震があったというのだ。大震災前の地震数は、全国一日平均で10回にも満たない回数だった。だから、この二日間の250回という数字が、いかに異常なものかが分かる。しかも、次の表で明らかなように、その震源地が「三陸沖」に集中している。

 この異常な地震回数と震源地の集中を見れば、素人でも何か起きるのではないかと考えるだろう。もちろん、素人だから何とでも言えるのだろうが。
 要するに、これらの報道から学ぶことは次のようなことであると思う。

① リアルタイムで公表される気象庁の「地震情報」※を毎日確かめる。
② もし、地震が異常なほど頻発し、その震源地が特定地域に集中しているときは、大地震の前兆かも知れないと用心する。
 
 ※ 「気象庁地震情報」→ http://www.jma.go.jp/jp/quake/quake_local_index.html

 まさに平凡な結論に落ち着くのだが、これが「緊急地震速報」程度には役立つのかも知れない。 

 

東日本大震災 前兆、2月からか 直前2日で250回

毎日新聞 5月21日(土)15時4分配信

東日本大震災 前兆、2月からか 直前2日で250回
拡大写真
活発化した地震活動が本震へ南下していく様子
 東日本大震災をもたらしたマグニチュード(M)9.0の地震の震源のほぼ北側約50キロで2月中旬から活発化した地震活動が南進して震源に近付いていたことが、東京大地震研究所の加藤愛太郎助教(地震学)の解析で分かった。3月11日の本震発生までの最後の2日間は、近付く速度がそれ以前の6倍になった。巨大地震の発生メカニズム解明に向けた手がかりとなりそうだ。22日から千葉市で始まる日本地球惑星科学連合大会で発表する。

【図説 東日本大震災から】日本周辺のプレートの状況と地震の仕組み

 加藤助教は、海側のプレート(岩板)が陸側に沈み込む境界で起きた本震までの一連の地震を解析した。その結果、宮城県沖の震源の北北東約50キロで2月16日にM5.5の地震が発生。その後、3月上旬にかけて、M2~4程度の約80回の地震が日本海溝と並行に南西方向へ進むように起きたことが分かった。さらに延長線上で3月9日にM7.3の地震が発生し、本震発生までの51時間に、約250回の地震が本震の震源に近付くように起きた。

 これらの地震の震源が移動する速さを算出したところ、判明しただけで3月9日までは1日1.6キロだったのに対し、最後の51時間では同10キロと大幅に速まっていた。過去10年の宮城県沖の地震活動では一定方向に進む今回と同様な現象はみられず、加藤助教は「前兆かは断言できないが、特異な活動であったことは間違いない」と話す。

 名古屋大の山岡耕春教授(地震学)は「本震に向けて地震活動が進んでいたことを見付けた価値ある成果だ。後から見れば玉突きするような前震を伴っていたと分かった地震は、内陸の活断層でもあった。現状ではまだ難しいが、応用して予測につなげたい」と話す。【久野華代、八田浩輔】



「災害復興を願う」 台北からの手紙

2011年05月21日 13時12分37秒 | 台湾

 先日、台湾の日本語世代C氏に「パッテンライ!」のDVDをお送りしたのだが、そのお礼の手紙をいただいた。
 C氏は、悠々自適で、最近もタイに旅行していたという。お元気で何より。
 それとともに、「かつての祖国」で起きた東日本大震災についても、丁寧なお見舞いの言葉をいただいた。

 NHKの朝ドラマ「おひさま」を見ていると、このところ戦時中の学校生活が描かれているが、教師をしている主人公が、「いま風」の視点で教え子に説教する点が気になってならない。「民主主義」「個人の自由」などという概念は、もちろん戦前にもあったのだが、いざ日米戦争(太平洋戦争)が始まった途端、国民は緒戦の戦果に熱狂したはずだ。4年後の敗戦など想像できるはずもなく、教科書に墨が塗られ、東京裁判で東条英機に死刑判決が出されるなど、誰も知るよしもなかった。だから、朝ドラの主人公の科白は、歴史のあと知恵そのものではないかと思えてならない。それを「軍部に騙された戦争」と言うのなら、身も蓋もないことだが…。

 こんな事を書くのも、C氏の手紙は「かつての祖国日本よ、永遠に栄えあらんこと祈りつつ貴殿のご健康とお多福を祈っております」と結ばれていたからだ。C氏の日本語は、読み書き、会話もすべて完璧。かつて日本の一部であった台湾で日本の教育を受け、それを誇りに思ってくれている人がここにいると思うと、われわれはもう一度歴史を振り返ってみる必あるのだと思えてくる。

 ここにC氏の手紙を紹介する。

「拝復 ご親切なお手紙、DVDなどお送り下さいましてありがとうございます。ご返事が遅くなりまして、誠に恐縮しております。小生はずっとコタバル(泰國、馬来西亜)あたりを旅行してきました。帰宅早々お手紙を発見、直ちに筆を執った次第です。
この度の東北大震災を知って、小生も大変驚いております。友達へ連絡して聞いてみたら、発生以来ずっとNHKを見ているそうです。これは天災です。人間ではどうにも防ぐことができません。
願わくば日本人民よ団結して一日も早く復興するよう心から祈っております。………
三月十一日の新聞を探してずっと見ました。台湾人たちは我が子とのごとく直ちに募金農会では何百屯の野菜を続々送るそうです。陽明般会社では、日本向けの品物、救済品は一切無料、また、銀行では日本救済金特別口座をいまだに募集中、7日前の新聞では36億元も集めたと報じております。
至る所では、日本よがんばれ! 四海皆兄弟!と宣伝して募金しております。……
かつての祖国日本よ永遠に栄えあらん事を祈りつつ貴殿のご健康お多福を祈っております。ごきげんよう。再会  台湾 Cより」

 

 

 


伊豆見元・静岡県立大学教授は学歴詐称をしているのか?

2011年05月16日 12時38分47秒 | 

 最近、重村智計氏(早大教授・朝鮮政治)の著作を2冊読み返して、気になることがあった。

 「外交敗北~日朝首脳会談と日米同盟の真実」(講談社 2006年7月)においては、次のような記述が見られる。朝鮮問題の評論家について著者は、「その場限りのいいかげんな解説や発言」をする人物としてA教授を挙げている。

「(著者は)A教授がソウルの民間研究所に籍を置きながら、語学学校に通っていたことを知っている。ソウル特派員時代に、お世話をしたこともあった。残念ながら、延世大学の大学院には籍を置けなかった。延世大学の教授達によると、博士課程に在籍することもかなわなかったという。」(同書140ページ)

 これは、おそらく伊豆見元・静岡県立大学教授を指すのだろうと思われたが、まあ両センセイは仲が悪いんだなあとしか思わなかった。ところが、重村著「金正日の正体」(講談社現代新書 2008年8月)では、このことがよりはっきりと書かれている。

「NHKにしばしば出演するS大教授は、経歴詐称を疑われている。”延世大学大学院博士課程修了”の経歴を、長年にわたり新聞や雑誌で使っていた。私の友人の延世大学教授が”調べたら、大学院の学籍簿にまったく名前がない。在籍を、記憶している教員もいない。経歴詐称ではないか”と、聞いてきた。」(同書226ページ)

 これでこの教授とは、伊豆見元氏を指すのだということが明らかになった。朝鮮政治の専門家は数えるほどしかいない、言い換えれば朝鮮政治を専攻してもなかなかポストは得られないから、よほどの動機がない人はその道に進まないのだ。
 静岡県立大学の公式データで伊豆見氏の学歴は次のように表記されている。

学歴
1974年 中央大学法学部政治学科卒業
1977年 上智大学大学院外国語学研究科国際関係論専攻博士課程前期修了
学位
国際学修士(上智大学・1977年


 この「国際学修士」の論文は、朝鮮戦争を取り扱ったもので、以前の上智大学HPには氏名及び論文タイトルが明示されていたので、事実である。上智大学には今も昔も、朝鮮半島の研究者は皆無だが、このとき論文指導をしたのは朝日新聞出身の前田寿という人ではなかったか。静岡県立大学へ届けられた最終学歴は、上智大学大学院修士課程となっているので、少なくとも現時点で職務上の虚偽記載は見られない。
 だが、重村氏が問題とするのは、それ以降の経歴、学歴である。Wikipedeiaを引用すると次のようになる。

   1969年3月 - 東京都立広尾高等学校卒業
   
1973年4月 - 東京外国語大学外国語学部 教務補佐員(-1979年3月)
   
1974年3月 - 中央大学法学部卒業
   
1977年3月 - 上智大学大学院 国際関係論専攻博士課程前期(修士)修了
   
1979年4月 - 財団法人平和・安全保障研究所研究員(-1986年5月)
   
1981年2月 - 韓国延世大学校韓国語学堂修了
   
1982年2月 - 韓国延世大学校政治学大学院研究課程修了
   
1986年6月 - 財団法人平和・安全保障研究所 主任研究員(-1987年3月)
   
1987年4月 - 静岡県立大学国際関係学部 助教授(-1995年3月)
   
1991年9月 - ハーバード大学国際問題センター 客員研究員(-1992年8月)
   
1992年9月 - 英国ニューカッスル大学東アジア研究センター 客員研究員
   
1995年 2月 - 米国平和研究所 客員研究員
        4月 - 静岡県立大学国際関係学部 教授(-現在)

 こう見ると確かに、伊豆見という人はしたたかに学歴アップを図ってきた人物だということが分かる。だがもし、重村氏が指摘する部分、つまり1982年2月 - 韓国延世大学校政治学大学院研究課程修了が虚偽記載であると疑われているのなら伊豆見氏はこれに対して反論すべきだろう。何なら、名誉毀損で訴えるべきではないか?

 TVで伊豆見氏を見る限りでは、単位や学生の勉学姿勢に厳しそうなセンセイのように思われる。傲岸不遜という印象だ。私の経験では、そういう人に限って、何かコンプレックスを持った人が多かった。学歴がないというコンプレックスも含めて。

 朝鮮政治の専門家など、小此木政夫氏を筆頭に数えるほどしかいないのだから、その「業界」内でこういう批判があるのなら、はっきりと黒白をつけるべきだと思うのだが、いかがだろう? 伊豆見センセイ!

 

金正日の正体 (講談社現代新書)
クリエーター情報なし
講談社

 

 

 


ハワイのベトナム料理

2011年05月13日 09時31分42秒 | 社会

 連休明けの先日、大学に聴講に行った。連休中ホーチミンに出かけていた先生から、学生たちにコーヒーの差し入れがあった。授業が行われる教室は、専攻語毎の共同研究室。20人も入ればいっぱいの部屋に、原語の本・雑誌類が多数収納されていて、PCやTVも備わっている。一学年の学生数が13名なので、まさにクラブの部室のような感じ。ここで先生や先輩・後輩との交流がおこなわれるのだから、信じられないほどの恵まれた環境だ。

 私の学生時代を思い出すと、学生用のロッカーなどもちろんあるはずもなく、特定学部専用の建物もなかった。ケータイもない時代だったから、友人と待ち合わせるのも大変だった。もっとも、小さく貧弱なキャンパスだったから、たむろするところは限られていたが…。私の世代では、母校というモノに全く愛着を持っていない人が結構多い。

 まあ、そんなことはともかく、いまの受講科目がベトナム関連なので、先日ホノルルに行ったときも、まずベトナム料理店を探してみようと思った。私たちが立ち寄ったのはビーチに近い「Old Saigon」という店で、サトウキビにポークを巻いた料理、フォーなどを満喫した。翌日、チャイナタウンに行ったときは、さらにベトナムらしい(古く汚れた感じの…)レストランがあったが、残念ながらオープン時間前だった。

(「オールド・サイゴン」という目抜き通りのレストラン。味はまあ合格点。「シャム Siam」というタイ料理店の方が美味だった。)

 これらのベトナム料理店は、ベトナム戦争以前からあったものなのか、それとも南ベトナムから亡命してきた人が生業のため始めたものなのか、どちらなのか。
 ベトナム戦争というと、当時の学生は、岡村昭彦という元祖・戦場カメラマンと本多勝一(朝日新聞)の著書に大きな影響を受けた。米国は間違っていて、民族解放戦線(ベトコン)は正義という、一方的な観念を植え付けられたのだ。だが、今や、彼らの著書など誰も信じない。岡村については、はったり屋の嘘がばれてしまった。本多勝一は、異様な自己顕示欲と左翼思想の持ち主で、彼の記事の多くが著しく客観性に欠けていることが明らかになった。本多が岡村の虚偽を暴くという内輪もめのエピソードを覚えている人ももうそう多くはないだろう。

 いま、ベトナム戦争を知るためには、近藤紘一「サイゴンのいちばん長い日」(文春文庫 1985年)が最適だと先生は学生に薦める。著者は、産経新聞のサイゴン特派員だった人。当時の学生は、産経新聞記者の書くことだからといって、読もうとしなかった本だ。
 文化大革命をレポートした新聞記者の著作の中で、今なお読むに値するのは、産経新聞・柴田穂(故人)のものだけ。
 ベトナム戦争も文革も、いまや歴史の一部となってしまい、当時書かれた書物(情報)は大方忘れ去られて、読むに値する本物だけが残った。今年大学に入った19歳の学生は、その本物だけを読む。これが歴史の流れというものか。

サイゴンのいちばん長い日 (文春文庫 (269‐3))
近藤 紘一
文藝春秋

ホノルルのチャイナ・タウンにて China Town in Honolulu

2011年05月11日 12時06分11秒 | 歴史

 連休はハワイでのんびり…と言いたいところだが、私は真っ先にホノルルのダウンタウンにある中華街(チャイナ・タウン)に足を運んだ。

 お目当ては、孫文の足跡を辿ること。1866年、広東省に生まれた孫文(孫中山)は、青年期、ハワイ在住の兄を頼ってホノルルの学校に学んだ。現在のプナホウ・スクールという学校だが、奇しくもそこはオバマ大統領が卒業した学校でもある。
 さらに香港で西洋医学を学んだ孫文は、1894年ハワイで「興中会」を組織する。清朝打倒を目指す革命組織と言われた。このように、孫文とハワイの関わりは深い。

 チャイナ・タウンの孫文像は、「中華文化センター」とその横を流れる川の遊歩道のところに置かれていた。

 (國父 孫中山 像)

 だが、この場所は、ちょっと柄が悪い。すぐそばで、真っ昼間から、目つきの鋭い男たちがカードなどのギャンブルに興じている。孫文の時代には、もっと暗く怪しい街だったのかも知れない。

 (ハワイ中華文化センター)

 孫文像の近くにあるのが「ハワイ中華文化センター」。上の写真でおわかりのように、米国と中華民国(台湾)の国旗が飾られている。中国大陸(中華人民共和国)の「五星赤旗」でないのは、これまでの歴史的経緯を物語るかのようだ。つまり、中国の影響力は、米国の一州であるハワイでは、今なお限定的なのだ。別の言い方をすれば、米国は依然として中国の魔手から台湾を守ろうとする意思があるということか。

 ここで米国、ハワイ、日本の史実を年表ふうに並べてみよう。

1867 明治維新(大政奉還)
                    1893 ハワイ王朝崩壊   

1895 日清戦争(台湾領有)  
                    1898 米国がハワイ、フィリピンを植民地に

1905 日露戦争 

 1898年、米国は米西戦争の結果、フィリピンを米国の植民地とした。同じ年、米国はハワイを併合した。1893年のハワイ王朝崩壊は、米国の影響下にあった「共和派」が仕組んだ謀略だったから、その5年後、ハワイが米国に領有されるだろうことは明白だった。
 これらの出来事を明治日本の立場から見れば、太平洋の西と東から日本を挟むかのように米国の勢力圏が拡大してくるように感じたに違いない。これが、太平洋の覇権争奪の出発点だったのかも知れない。
 
(チャイナ・タウンの八百屋さん)

 真珠湾を訪れる日本人は、年々減っているようだ。戦争体験者が高齢化して、もはや真珠湾に来ることも少なくなった。戦争を知らない世代は、太平洋戦争(日米戦争)について無関心か、「日本は間違った戦争をした」という贖罪意識を植え付けられているかのどちらかだ。

 だが、ここハワイに来てみるとよく分かる。帝国主義時代の植民地争奪戦には、正義も悪もなかった。そこにあるのは、勝者が勝利を自己正当化してきた歴史だけではないか。
 日本対米国、アジア人対西洋人、黄色人種対白色人種がぶつかり合い、雌雄を分けた場所のひとつ、そこがハワイなのだと実感した。
 真珠湾のアリゾナ記念館で見せられた記録映画では、「ナチスと手を結んだ日本は、中国、満州を侵略し、わが真珠湾を不意打ちした」というように説明される。20年ほど前にここを訪れた友人の話では、「ジャップの奴らが…」という調子だったそうで、米国側も少しは謙虚になったようだ。ヒロシマの平和記念館では、記念碑に「もう過ちは繰り返しませんから…」と記されている。米国が日本の一般市民の上に2発の原爆を落としたのだという”事実”さえそこには記されていない。日本人の脳天気とも言える「歴史認識」には、ただただ呆れるばかりだ。

 この映画を見ていた中国人観光客がいた。彼らは、米国と中国が同盟関係にあったことだけを拡大し、自らに都合のいい歴史解釈をするのだろうか。歴史を水に流す日本人と、歴史認識を楯に自己正当化を図る中国人との違い…。欧米諸国は、このギャップを上手に利用している印象だ。白人国家にとっては、その方が好都合だから…。
  

  

 (真珠湾攻撃の説明パネル~真珠湾)


 
 

 

 



  


 
  


連休のハワイ旅行

2011年05月10日 10時56分05秒 | hobby

  今年のゴールデン・ウィークにハワイに行った日本人は、福島原発事故の影響で例年の半分ほどだったそうだ。私自身、米国に旅行したいと思ったことは一度もないので、実はあまり乗り気ではなかった。ツアーの日程にも無関心だったので、同伴者からは「少しは読んでね」と注意されたほどだった。

 だが、実際に行ってみると、景色は絵はがきを見るようで、街の治安もよく、食事も結構美味しかった。もっと若いときに来るべきだったと、内心、残念に思ったくらいだった。

 (ダイアモンドヘッド山頂から見たホノルル市街)

 ダイアモンドヘッドに登って、日ごろの運動不足を痛感した。白人の年配者が結構元気に登っていたので、シャクだった。次の日には、真珠湾に行き、「アリゾナ」記念館を見学した。二百人ほどの観光客が、一緒に「Remember Pearl Harbor」の記録映画を見て、連絡ボートに乗ったが、アジア人はごく少数。おそらく日本人は我々だけだった。

 私が気づいたのは、中国人観光客が意気軒昂に見えたこと。何故なら、当該記録映画は「ナチスと同盟し、真珠湾を不意打ちにした大日本帝国(Japanese Empire)を正義の戦いで破った」としていたから。中国は米国と同盟関係にあり、邪悪な日本をやっつけたと読み取ることもできるからだ。韓国人観光客もいたが、ほぼ同じようなことを感じたのではないか。戦後ずっと「悪うございました」と言い続けてきた日本人は、これからはこのままでいられるはずはない。間違いなく中国は、日米関係の離反を狙って、米中友好の歴史を強調するに違いない。
 「震災後」には、それに相応しい新たな歴史認識が必要となるだろう。実はハワイ王国の滅亡と明治維新の断行には深い相関関係がある。それを知るだけでも、過去と現在は繋がっていて、誰が一方的に悪かったなどとは言えないはずだ。

真珠湾 記念館


 

 

 

 

 

 

 (真珠湾にて)

チャイナタウンでは、真新しい孫文像に出会った。ハワイは東京と同じく、孫文ゆかりの地でもある。だが、真昼だというのに、カードなどのギャンブルに熱中する目つきの鋭い華人がたむろしていて、ホノルルの中では異様な感じがする街だった。

(真珠湾の説明プレート)

 真珠湾、チャイナタウン、博物館と連れ回された家人は、おつき合いにうんざりだったかも知れない。リゾート地なのにね…。それが私のわがままなところ。
 
 


李登輝氏 最新インタビュー

2011年05月03日 14時54分25秒 | 台湾

李登輝氏の最新インタビューが「台湾の声」に掲載中。ここに転載させていただく。

 

【 李登輝元総統 インタビュー】(1)「化外の地」から真の独立国家へ


           時局心話會 代表 山本 善心

 7月17日から台北で行われる日台アジア会議の発足に向けての準備が大
詰めを迎えている。そこで先月の3月18日に訪台し、李登輝元総統を訪ねた。
李氏は約二時間にわたってインタビューに答えられたが、元気溌剌で90才と
は思えぬ迫力に筆者もたじたじであった。本稿では三週にわたり会談内容を
掲載します。

山本:このたびは日台アジア会議の趣旨にご賛同いただき、また対談の機
会もいただき、まことにありがとうございます。今回は、日本の過去の植民地
時代から、李先生が台湾の近代化の礎を築かれるに至った歴史的経緯や、
後半は現今の台湾を巡る政治情勢などをお聞かせくだされば幸いです。た
とえば歴史的に見て、実際に日本人は韓国や中国で言われるようなひどい
ことを台湾でしたのか、あるいはいいこともしたのか、ほとんどの日本人は
偏向した教育を受けていて全く理解していない人が多いようです。そして、台
湾を取り巻く国際状況はどのように変化していくのか、等々、ご意見を聞か
せていただきたいと思います。


「化外の地」から真の独立国家へ


李氏:結局、台湾というのは国民政府というよりは蒋介石総司令の台湾占
領以降、所属不明の状態で、どこにも属していません。アメリカは台湾を憂
慮した姿勢を見せながら都合良く駒として使っているというのが実状です。
旧ソ連との冷戦時は中国と結ぶために台湾を疎遠にしておきながら、中国
との関係が悪化すると台湾の重要性がはっきりしてくるわけですよ。

 ですから、台湾としては、そろそろここら辺で思い切って自分でどういう方
向に進むか、経済も外交も国としての自主性を発揮する時期が来ているの
ではないかと思います。私の総統時代は、米国に譲歩して昔の中華民国憲
法を残しながら、アメリカ式に増加条文というのをつくって、「第何条は通用
しない」という形をとりましたが、そろそろ中華民国という名前も変えて、はっ
きりとした台湾独自の憲法を発布するという段取りでやらないといけない時
期に来ていると思います。

 民進党の第七回の憲法修正案では国民党と取引をして、国民不在のまま
党利党益に走りました。党の利益といっても、中国の場合は昔の日本のよ
うな天皇を重視して国を固めるというやりかたではなく、人民を圧迫して党の
力を強くして、党の利益を中心とするのが中国のやりかたです。それは共産
党も国民党も変わらない。台湾も同じ。5千年の歴史というのはどんなに朝
庭が変わっても皇帝中心で、いまも昔の皇帝型統治が続いているんですよ。
ただ、朝貢した当時の琉球やコリアと異なり、台湾は中国文化の及ばない
『化外(ケガイ)の地』とされてきました。


台湾の黎明期


 清の時代、フランスは清と戦争やって今のベトナムを獲りました。ところが
フランスは、基隆と淡水に攻めてきた。清国はフランスと闘って勝った。そう
いう経緯があって、台湾に初めて、省ではないけれど巡撫を置いて台湾を
基地化としようとなったんです。

 その時の巡撫であった劉銘伝は6年ほどの間に鉄道、税制、土地改革な
ど、台湾に於ける初の改革を行いました。石炭投資、茶の栽培の奨励など、
台湾の歴史上初めての試みでした。しかし鉄道敷設もごく一部にとどまり、
中途半端な状態で終わりました。その後、後藤新平がやってきてわずか8
年7カ月の間に台湾のあらゆる制度が刷新されることになります。まず行政
改革。組織を決めて司法制度ができる。度量衡、貨幣も統一されました。


台湾近代化に貢献した後藤新平


 日本は日清戦争後、十年間台湾に援助する計画でしたが、当時、日本が
ロシアと戦争するために軍事資金が必要で、援助は五年で途絶えました。
台湾は自分たちで生きていくために専売制度を設け、塩、酒、たばこなどを
売っていました。後藤新平が四代目児玉総督の民政長官として赴任するま
ではアヘンの専売制度もあったんですよ。初代~三代総督時代の官吏は
柄が悪かったのでしょうね。後藤新平は着任すると1080人の台湾にいる日
本人を日本に追い返して、代わりに一流の人間を連れてきました。その中
に新渡戸稲造もいたのです。

 後藤新平はわずか8年数カ月の間に、地下水・上水道の問題を始め何か
ら何まで台湾の近代化組織をつくりあげました。彼は日本に帰国する前に
アモイに行きました。日本統治時代は日本籍を取る者は残れ、取らないも
のは財産を没収すると二年間の猶予を与え、その結果、台湾に残った人間
はほとんど日本籍を取り、財産は保持されました。

 私が子供の時分は、学校で先生たちが、「おまえたち、きちんと話を聞け
!」「おまえたち日本籍をとるために残った人間じゃないか」などと、よくいっ
ていましたよ。こうしてこれまで化外の地としておざなりにされてきた台湾で
したが、日本の統治下で台湾と日本の交友関係が促進され、いわゆる明治
維新のときの、東西関係の融合が促進されたわけです。

 後藤新平は強い信念を持っていました。彼はアモイに行ったあと、香港、
マニラ、インドネシアなどで力強い南方貿易事業を行い、後に華南銀行とい
うのを作りました。ところが惜しいことにその後彼は総裁として満鉄に呼ばれ、
そこでの大陸政策に従事することになったのです。そしてまたそこに日本の
大陸政策がつくられることになったのです。即ちハルピン協会をつくり、満鉄
を発展させて、第二次世界大戦と結びつく・・・。もし彼の南方政策でアジア
の島々と手を結んでいたら日本はまた違った道を歩んだかもしれない。歴史
というのは面白いですね。

 2007年に私は日本で「後藤新平と私」という題名で講演したことがあります。
彼と私は年代としては百年くらい違いますが、台湾の関係でいえば彼は台湾
の近代化、私は台湾を民主化したという関係になるでしょうね。

 後藤新平によって台湾の発展の基礎がつくられ、その後数代の総督の指
導と台湾人民の努力の結果、台湾はさらに発展しました。鳥居信平の屏東
の地下ダム、八田興一の烏山頭ダム、日月潭の発電所もこの頃つくられ、台
湾の農業と工業の生産力を高めるのに非常に役立ちました。

 1925年に台北高等学校、その前に医学専門学校、農業専門高等学校、商
業学校も沢山つくられ、1928年には台北帝大が設立されました。ちょうど戦
争に入りかけのときでした。日本の台湾に対する政策は外国の色々な昔の
帝国主義者と違って、まず現地の人間を教育し、台湾の経済的な発展を促
すという政策で、搾取するというよりは、台湾を活かして全体的に発展させ
るという考え方だったのです。


台湾人の中には指導者が育たなかった


 謝雪紅と言う女性がいましたが、振り返ってみると、あの時代、台湾人で
指導者的役割を果たした人物と言えば、彼女ぐらいでしょうね。彼女は日本
共産党の台湾の指揮者だった。1945年には台中で「人民協会」や「農民協
会」も設立しましたよ。あのとき日本が台湾の政治指導者を養成しなかった
ことが悔やまれます。日本統治時代、日本兵として兵隊にいった人はおそら
く15~16万人はいたと思いますが、この中から二二八事件の指導者はあら
われませんでした。この謝雪紅だけが一番良く働いた人でしょう。台中警局
や公売局台の中分局を占拠して国民党の兵隊と闘いました。しかし人数も
少なかったので、結局埔里まで行って、梧棲港から香港に逃げたのですが、
香港に行ったあと、中国共産党に随分やられましたね。可哀想なことをしま
した。彼女は一生台湾の農民の為に闘った人です。

 もし、日本がきちんとした指導者を残しておいて、それが台湾の全体的発
展になればよかったと本当に悔やまれて仕方ありません。


アメリカの台湾関係法ありき


 台湾はマッカーサー司令部が蒋介石司令に台湾の日本兵を投降させて
占領をやれと命令しました。国際的にこういう例がないのです。台湾内部に
強い指導者がいれば台湾の自主性が固められたはずですし、そうなれば
台湾と中国関係はないし、日本との関係もきれいだった。要はアメリカとの
関係、おそらく軍事政府が関係するスキャプなんでしょう。ところが、このス
キャプがなくなってもアメリカの国防部が握っているのです。

 台湾問題は結局、中国との関係ではアメリカの国内法の台湾関係法が
ありきになっています。台湾は国際貿易上では、あのとき私が1989年末に
ガットが終わって、WTOに代わる前に、関税領域と言う名義で申請したため
に各国との貿易関係ができあがったのです。