中華人民共和国の内モンゴル自治区で遊牧民の反政府抗議行動が起きて、中国当局は戒厳令を発したと伝えられる。
中国共産党は、「ひとつの中国」という虚構のもとで、モンゴル、ウイグル、チベットなどの少数民族を抑圧、支配している。最近では辺境地域への漢族の移住、学校教育における「普通話」(=北京官話)の強制などの政策を強め、漢族と少数民族とのあつれきが高まっている。
中国、内モンゴルに戒厳令か 遊牧民の抗議行動拡大
産経新聞 5月29日(日)17時53分配信
同団体が27日に発表した報告などによると、今月中旬、遊牧民1人が石炭を積んだトラックにはねられて死亡。4日後にも1人が車の衝突で死亡した。同自治区では、炭坑開発による大気や水質汚染の深刻化に遊牧民が反発。業者や政府に対応を求めていたことから、事故を装った殺害を疑う声が上がった。
住民らは23日ごろから、死亡原因の究明やモンゴル族の人権尊重などを求めてデモを開始した。当局が24日に運転手らの拘束を発表した後も抗議行動は激しさを増し、25日にはシリンホト市で、モンゴル族の学生らを中心に数千人が政府庁舎を取り囲むなどする騒ぎが発生。27日には同市郊外で、遊牧民や学生らと治安部隊が衝突し、40人以上が拘束された。
チベット族やウイグル族による抗議活動が多発する中、モンゴル族居住地での衝突は、中国当局にとっては新たな“火薬庫”となりかねない。遊牧民らの怒りには、石炭採掘など自治区の資源をあさる漢族への反発も見え隠れする。
それだけに、7月1日に共産党創立90周年を控える中国当局は治安部隊の大量動員やインターネット規制に加え、戒厳令まで発して、少数民族による抗議行動の飛び火を押さえ込もうとしている。
中華文明は一度滅んでいたのだ
2011/02/21 07:23更新
【正論】
◆対中イメージ砕いた3事件
菅直人首相は最近、中国事情に詳しい財界人を集めて懇談会を開き、日中国交回復40周年にあたる来年に向け、新たな日中関係を再構築することを視野に入れた提言を要請した。これは、2月下旬に日中両政府が外務次官級の戦略対話を行うという方針とも連動、尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件で悪化した関係の改善を図り、首相自らの訪中も探るという、政財界一体の打開策と期待されている。
関連記事
記事本文の続き けだし、日本人の中国イメージは、近年の3つの事件により大きく傷ついた。第1は2007年の毒餃子事件であり、日本側に毒混入をなすりつけ、2年後に犯人逮捕を小さく報じ、謝りもしなかった中国側に、日本人は大いに不信感を持った。孔子の言葉を借りれば、「子曰(いわ)く、已(や)んぬるかな、吾(われ)未だ能(よ)く其(そ)の過ちを見て、内に自ら訟(せ)むる者を見ざるなり」(老先生の嘆き。残念だな。私は己の過ちを認め、心の中で己を責めることができる者に出会ったことがないのだ。公冶長篇)である。
第2は08年の北京五輪開会式である。国際舞台でのCGを使った偽装や口パクによる革命歌曲独唱の擬態など捏造(ねつぞう)が次々と暴かれるにつれ、日本人の多くが唖然(あぜん)とした。「子曰く、朽木(きゅうぼく)は彫るべからず、糞土の牆(かき)は●(ぬ)るべからず」(老先生はおっしゃった。腐った木には彫ることはできない。ぼろぼろになった土塀は上塗りできない。公冶長篇)であろう。
第3は10年9月の尖閣事件である。民主党政権のビデオ非公開のもくろみを一海上保安官がネット公開という形で打ち砕いた。孔子流にいえば、「民、信ずる無くんば立たず」(もし為政者への信頼がなければ、国家も人も立ちゆかないのだ。顔淵篇)である。
◆儒教的教養への幻想を排せ
日本人は中国に対し「四千年の歴史の国」「孔子、孟子を生み、漢字を伝えた文明大国」との尊崇の念を抱いていたのに、これは一体どうしたことか。古い世代を中心に儒教的教養への畏敬は根強いのだが、ついに儒教研究の碩学(せきがく)、加地伸行氏をして「中国のエリート層には孔子や孟子のような仁者が大勢いるはずだなどと、呆(あき)れた妄想をしている人もいますから」(『正論』11年2月号)と忠告せしめるほど、実態とイメージはかけ離れてしまったかに見える。
しかし、中華文明は夙(つと)に滅んでいたのだと主張する人が日本にはいた。中国文学研究の泰斗、吉川幸次郎博士である。その著作集の14~16巻と26巻によれば、モンゴルの侵略は中華文明の絶滅を意味した。元代では科挙制度が開国から百年あまり廃され、再度開かれたが、漢化ぎらいの宰相バヤンによってまた断たれる。モンゴル人は七面倒くさいことをいう読書人より、実務の才のある吏を重んじた。元では、相当の知識人でも膝を屈して小吏になったという。
皇帝も6、7代目は特にシナ嫌いで、8代目は科挙を再開したものの、自分は簡単な漢字しか書けなかった。9代目はモンゴル語訳で読書した。13代目は漢字を書くのが好きだったが、大根に彫った字の拓本を近臣に賜(たま)う始末。最後の第15代順帝は漢文の読み書きができたが、モンゴル人でなく漢人との落胤(らくいん)だという異聞もある。
◆ひれ伏さなかったモンゴル人
文明の絶滅はまず詩文に表れた。詩人たちは滅びた過去をなぞる。元代は唐詩をまね、水っぽく無内容で無気力な詩を大量に生んだ。次の明代は、安易な科挙を行い、詩人の能力を欠いた知識人が台頭、唐詩のまねごとが排他的になった。最後の清代では、こんどは宋詩が排他的になぞられた。
他方、元以降は非読書人によるフィクション文学が堰(せき)を切ったように発生する。元の演劇、元曲が作られたが、台詞(せりふ)はたどたどしく、大した描写力もない。言葉を然(しか)るべく並べる頭脳がなく、論理はあらぬ方向へそれる。それが明で伝奇物になり、清では京劇になるが、元代の写実性も明代の叙情的な優雅さも失われていった。
それでも吉川博士が「水滸伝」の翻訳を試みたのは、文学愛好者としてよりも、文献学者としての興味からだという。唐詩の時代には、日本には「万葉集」という詩集があり、「水滸伝」よりも先に「源氏物語」という小説があり、日本留学帰りの魯迅よりも先に漱石、鴎外という小説家が近代にいたことを、これからも中国人は知ろうとすらしないだろう、と吉川博士は述べている。
結局、シナ人の「文力」の前に、ついに頭を垂れなかった最も屈強な民族、それがモンゴル人であった。中国以外の地域に広大な領域、ロシアやペルシャなどを支配したモンゴル人にとってみれば、シナ大陸は征服先の一文明圏にすぎないという相対的な見方をしていたからであろう。
中華文明は、宋代を最後に一度絶滅している。菅首相の懇談会は、文化やスポーツ、芸能などの分野でも「人的交流が非常に重要」と指摘している。ならば、吉川博士の生涯をかけた研究の結論もまた生かされるのではないかと、期待するのである。(筑波大学大学院教授・古田博司)