澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

ホノルルのチャイナ・タウンにて China Town in Honolulu

2011年05月11日 12時06分11秒 | 歴史

 連休はハワイでのんびり…と言いたいところだが、私は真っ先にホノルルのダウンタウンにある中華街(チャイナ・タウン)に足を運んだ。

 お目当ては、孫文の足跡を辿ること。1866年、広東省に生まれた孫文(孫中山)は、青年期、ハワイ在住の兄を頼ってホノルルの学校に学んだ。現在のプナホウ・スクールという学校だが、奇しくもそこはオバマ大統領が卒業した学校でもある。
 さらに香港で西洋医学を学んだ孫文は、1894年ハワイで「興中会」を組織する。清朝打倒を目指す革命組織と言われた。このように、孫文とハワイの関わりは深い。

 チャイナ・タウンの孫文像は、「中華文化センター」とその横を流れる川の遊歩道のところに置かれていた。

 (國父 孫中山 像)

 だが、この場所は、ちょっと柄が悪い。すぐそばで、真っ昼間から、目つきの鋭い男たちがカードなどのギャンブルに興じている。孫文の時代には、もっと暗く怪しい街だったのかも知れない。

 (ハワイ中華文化センター)

 孫文像の近くにあるのが「ハワイ中華文化センター」。上の写真でおわかりのように、米国と中華民国(台湾)の国旗が飾られている。中国大陸(中華人民共和国)の「五星赤旗」でないのは、これまでの歴史的経緯を物語るかのようだ。つまり、中国の影響力は、米国の一州であるハワイでは、今なお限定的なのだ。別の言い方をすれば、米国は依然として中国の魔手から台湾を守ろうとする意思があるということか。

 ここで米国、ハワイ、日本の史実を年表ふうに並べてみよう。

1867 明治維新(大政奉還)
                    1893 ハワイ王朝崩壊   

1895 日清戦争(台湾領有)  
                    1898 米国がハワイ、フィリピンを植民地に

1905 日露戦争 

 1898年、米国は米西戦争の結果、フィリピンを米国の植民地とした。同じ年、米国はハワイを併合した。1893年のハワイ王朝崩壊は、米国の影響下にあった「共和派」が仕組んだ謀略だったから、その5年後、ハワイが米国に領有されるだろうことは明白だった。
 これらの出来事を明治日本の立場から見れば、太平洋の西と東から日本を挟むかのように米国の勢力圏が拡大してくるように感じたに違いない。これが、太平洋の覇権争奪の出発点だったのかも知れない。
 
(チャイナ・タウンの八百屋さん)

 真珠湾を訪れる日本人は、年々減っているようだ。戦争体験者が高齢化して、もはや真珠湾に来ることも少なくなった。戦争を知らない世代は、太平洋戦争(日米戦争)について無関心か、「日本は間違った戦争をした」という贖罪意識を植え付けられているかのどちらかだ。

 だが、ここハワイに来てみるとよく分かる。帝国主義時代の植民地争奪戦には、正義も悪もなかった。そこにあるのは、勝者が勝利を自己正当化してきた歴史だけではないか。
 日本対米国、アジア人対西洋人、黄色人種対白色人種がぶつかり合い、雌雄を分けた場所のひとつ、そこがハワイなのだと実感した。
 真珠湾のアリゾナ記念館で見せられた記録映画では、「ナチスと手を結んだ日本は、中国、満州を侵略し、わが真珠湾を不意打ちした」というように説明される。20年ほど前にここを訪れた友人の話では、「ジャップの奴らが…」という調子だったそうで、米国側も少しは謙虚になったようだ。ヒロシマの平和記念館では、記念碑に「もう過ちは繰り返しませんから…」と記されている。米国が日本の一般市民の上に2発の原爆を落としたのだという”事実”さえそこには記されていない。日本人の脳天気とも言える「歴史認識」には、ただただ呆れるばかりだ。

 この映画を見ていた中国人観光客がいた。彼らは、米国と中国が同盟関係にあったことだけを拡大し、自らに都合のいい歴史解釈をするのだろうか。歴史を水に流す日本人と、歴史認識を楯に自己正当化を図る中国人との違い…。欧米諸国は、このギャップを上手に利用している印象だ。白人国家にとっては、その方が好都合だから…。
  

  

 (真珠湾攻撃の説明パネル~真珠湾)