澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

ウナ・セラ・ディ東京

2007年07月30日 10時06分10秒 | Weblog
「ウナ・セラ・ディ東京」という歌がある。ザ・ピーナッツが歌い、海外でも少しヒットした。故・宮川泰の作品である。
この曲を「マントヴァーニ楽団」がかつて演奏し、EPレコードとして発売された。先般、英国の知人がその音源(マスターテープ)を探そうと、英国デッカのアーカイブに出かけたが、マスターテープは遂に見つからなかった。
約40年前の音源なのだが、またひとつ歴史が失われたという思いじがした。
人の心は移ろいやすいものだが、こうした資料は40年くらいで無くなっては話にならない。

「ウナ・セラ・ディ東京」は東京の人々という意味か。自分のことしか考えず、何でも権利を主張をするという風潮が極めて顕著になった昨今、この曲を聴くと、まだまだ穏やかだった「いい時代」を思い出す。東京の人々にも人情があり、親族の情も深かったのだ。

なんとかして、マスターテープを見つけて、CD化してほしいものだ。

「生活保護を辞退して孤独死」というニュース

2007年07月27日 04時32分25秒 | Weblog

「生活保護を辞退した北九州市の無職男性が孤独死していた問題を受け、「生活保護問題対策全国会議」など全国の11支援団体が26日、柳沢厚生労働相あてに公開質問状を提出した。北九州市長あての質問状と同時に提出された。支援団体によると、生活保護の受給要件を満たしているにもかかわらず、受給者が自治体側に勧められるなどして辞退届を提出したり、申請段階で拒否されたりするケースが後を絶たないという。質問状では、こうした自治体の対応を是正する措置や、北九州市の保護行政に対する検証について、厚労省としての考えをただした。来月20日までの回答を求めている。」  

上記のようなニュースが配信されている。
詳しいことは分からないが、次のようなことを感じる。
市の担当者と本人との間にどういうやりとりがあったかは分からない。だが、関係法令に基づいて事務を執行していたはずの担当者が、このことによって一生を台無しにされたことは確か。リスクが多く、説明責任ばかり問われる公務員には、優秀な人材は集まらなくなるでしょうね。何もかも行政の責任だという風潮を感じますね。これでいいんでしょうか…。
また、同じ官庁の中でも、住民と直接接触する現場には行きたがらず、官房系ばかりを回って、上手に世渡りをしようとする人間が増えるでしょうね。

 

 


姜尚中がスタジオパーク(NHK)に出演

2007年07月23日 22時08分36秒 | マスメディア

以前、姜尚中については、次のように書いた。

 『丸山真男に代表されるように、これまで東京大学の政治学(政治思想史)は、他の大学の追随を許さなかった。最高学府における「思索」の中心という印象が強かった。もちろん、TVでタレントまがいの活動をする教授も皆無だった。
何故、「在日」で「私大卒」という姜尚中が東大教授に選ばれたのか。「韓流ブーム」のおかげでもあるまいし、大きな謎である。人材豊富な東大に適任者がいないはずはない。この人事には、何か隠された政治的な意図があるのではないか。姜の属する社会情報研究所というところが、キー・ポイントなのかも知れない。
… 「在日」プラス「東大教授」を売り物にするというこの男のやり口は、本当にいやらしい。さも「良識」があるように装っても、並はずれた「自己顕示欲」は透けて見える。国家公務員であるなら、本来の職務に専念しろよ!エラソーに日本人と日本社会を批判するのなら、どこかの私立大学に移った方がいい。
でもこの鉄面皮は、次は音楽番組か料理番組にしゃしゃり出そうだな。

先週、姜尚中は、料理番組ではなく、NHKテレビの「スタジオパーク」に出演していた昼の番組なので、当然、サラリーマンは見ることができない。主婦向けという気楽さからか喜色満面だった。
司会者のアナウンサーがパネルを持ち出し、「夏目漱石と姜尚中さんの共通点」というクイズのような話を始めた。漱石が熊本にいたことがあり、姜も熊本出身という話に始まり、ヨーロッパ留学という共通の体験、最後に両人とも「東大教授」だという「正解」が示された。
いくら姜がNHK教育TVで夏目漱石関連の番組をやっているからとはいえ、こんなクイズを考えたのは誰だろうかと思った。NHKの人間が考えたにしても、こんな内容をうれしそうに受け入れるのはいかにも姜らしい。
姜が最もうれしそうだったのは、漱石も自分も「東大教授」だという部分。この人の内面が透けて見えるようで、興味深かった。

番組では、姜の半生も採り上げられた。「在日」に生まれ、両親は「ゴミ回収業」をして、辛酸を舐めた。自分も本名を名乗れず、通称で通していた。ようやく、大学院を経て、ヨーロッパ留学の機会を得ることになり、それが自分の「思想」を開眼させることになった、といういつもの講話が語られた。

差別を受けて苦労したにもかかわらず、刻苦奮闘して今の自分があるという話だが、若干の疑問と違和感を感じた。まず「ゴミ回収業」というが、そんなに極貧だったのかという疑問だ。熊本県立の有名校を出て、早稲田大学政治経済学部政治学科に入学している。当時、地方から東京の私立大学に通わせることはなかなか困難で、経済的理由から断念した人も多いと思う。彼だけが貧乏だったということはないのだ。また、これまで、在学した県立高校で差別されたとかいう話もでてこない。推測だが、普通のサラリーマンより少しばかり豊かな自営業の家庭で育ったのではないか。あの雑踏のような早稲田大学で、当時、大学院に行こうなどと考えたのは、経済的余裕のある連中ばかりだったはず。政治思想史というマイナーな分野で大学院の博士課程に行くというのは、よほど家庭が裕福でなければ叶わなかったはずだ。このあたり自分に不都合な部分は、意図的に隠蔽していると感じた。「在日」「差別」「自己探し」とかいうキーワードは、あとづけのものではないだろうかと疑う所以でもある。
彼が大学入試を受けた年は、学園紛争のため「東京大学」と「東京教育大学」の入試が中止になった。当時「本当は東大に入れたのに、入試中止で早稲田に行ってしまった…」とホラを吹く連中が多くいたが、姜の振る舞いをみていると、そういう連中とそっくりなのだ。早稲田特有の大言壮語と東大コンプレックスというやつだ。

姜の深刻ぶったしゃべり方は、「在日」のコンプレックスというよりも、自身の思想性の無さ、露骨な上昇志向、狂おしいばかりの自己顕示欲を隠すための方便に違いない。この人の場合、「在日」「差別」「刻苦奮闘」「自己の開眼」などは、自己を飾り立てるための小道具に過ぎない。そうでなければ、漱石と同じ「東大教授」ですと持ち上げられて、ニヤニヤしていられるはずはないのだ。こんな人が東大の政治思想史の教授とは…丸山真男先生が泣いているよね…。

 


 

 

 

 

 


ベトナムの”軽い命”

2007年07月21日 21時37分41秒 | Weblog

「日本人でよかった。」
これは、参議院議員選挙東京地方区の立候補者・丸川珠代(自民党・元テレビ朝日アナウンサー)のキャッチフレーズ。
ベトナムに行ってみると、ひねた私でもこの言葉を素直に受け入れることができそうだ。
失業率は5%と発表されているが、週日の日中に大勢の若い男が所在なさそうにたむろしている。大学で日本語を学んでも、日本に行けるような職業に就くことは難しい。病気になっても、日本のような進んだ医療制度はなく、結局、十分な医療を受けることができるのは金持ちだけ。まして、国民年金なんて夢物語…。これがベトナムの現実なのだ。

 日本の障害者教育には、年間、児童・生徒一人あたり1,300万円もの費用がかけられている。障害者の保護者はそれでも不満で、なにもかも無料にしろと言い続けている。弱者の権利だそうだ。
ベトナムでは、義務教育とはいいながら保護者負担が多いので、貧しい家庭は子弟を学校にあげられないという。日本の障害者数人分のお金があれば、ベトナムに小学校をひとつ建てることができて、心身共に健康で将来のある子供達を育てることができるのになあと思った。このほうがよっぽど、人類の未来に貢献するはずだ。

旅行中、年寄り、障害者はあまり見かけなかった。日本では団塊の世代がどうしたとか話題になるが、ベトナムでは戦禍や自然淘汰で、すでに多くの人が亡くなってしまったのだろう。ベトナムのような国に行くと、一国平和主義の日本で「権利だ」「人権だ」と騒いでいる連中の浅はかさが浮き上がってくる。

確かに「日本人でよかった」のだ。残念ながら、国際社会でも日本社会でも、みなが平等で、平和だなんてありえない。
満ち足りた日本にいながら、無分別に他者を批判したり、権利ばかりを主張する連中は、今このとき、この地に生まれた幸運を噛みしめる謙虚さが必要だろう。

残念ながら、国際社会も、日本社会も、皆が平等で平和だなんてありえない。いつも権力や他者を批判して、自国を貶めてきた連中は、この単純な事実を見つめるべきだ。そしてこの時、この地に生まれた幸運を噛みしめるときも必要なのだ。


ベトナムの「カフェ」

2007年07月15日 11時44分15秒 | Weblog
ハノイ郊外の街道筋には「Cafe」の看板が林立する。
家の前に必ず1本の木が植えられ、木陰をつくっている。そこに簡単なテーブルとイスを置いて、「カフェ」の出来上がり。住んでいる人の数に比べて、カフェの数が異様に多いという印象を受ける。
そこで出されるものは「セブンアップ」などの缶入りドリンクか、簡単なお茶くらい。酷暑が生んだ知恵と言えるだろう。

では、昼からそこにたむろする男達は何をしているのか? ベトナムへの思い入れが強すぎると、ガジュマルの木陰で哲学的な話をしているように考えてしまうが、実は「隣のばあさんがどうした、こうした…」というくだらない話ばかりだそうです。(姪の話)

ハノイに留学していた姪は、女二人で、ハノイからホーチミンまでの1,800kmを3週間かかって旅行したそうです。もちろん飛行機ではなく、バスと鉄道で。現地に行くと、そのすごさがわかります。まさに武勇伝…。

    (写真はカフェではありません。)

ベトナムのニガウリ

2007年07月14日 10時09分02秒 | Weblog
ハノイの「1912市場」でニガウリを探した。
犬肉はおおぴらに売られていたが、ニガウリはなかなか見つからない。
この市場は、二つの大通りを細長い路地でつないでいて、肉(牛・豚、鳥、犬)野菜・果物、米、乾物などの小売店がぎっしりと並んでいる。床屋もあり、簡易な食堂もある。法令上OKなのだろうが、薄暗い路地に、バイクがひっきりなしに突入してくるので、油断していてはだめだ。

目指すニガウリは、野菜を扱う店(八百屋?)の片隅にひっそりとあった。(写真の左端)どこでも育つニガウリは、ことさら商品にするまでもないのだろう。宮古島でも、ニガウリは自給自足が普通だ。

この市場ではマンゴーを買った。1kgで30ドルという言い値だったが、3コだけというと30,000ドンだと言う。日本円で250円くらい。マンゴー1コで80~90円という計算だ。これは結構、美味だった。

これから旅行する人には、次のような注意が必要。
①多額の円をベトナム通貨(ドン Dong)に替えないこと。成田では取り扱っていないので、ベトナムで使い残したドンは、結局、空港(ハノイあるいはホーチミン)の売店でドルに交換することになる。(円への交換はしてくれない。)
②土産店ではドル表示の店がほとんど。ドンで購入すると割高になる。もちろん、円では買えない。

ホイアン(2)~リゾート地として

2007年07月13日 13時09分42秒 | 歴史
ホイアンからダナンに向かう道筋には、リゾート・ホテルやゴルフ場の建設が始まっている。これらは、とても日本人がターゲットとは思われず、多分華僑や中国人向けなのだろう。
ホイアン新市街からは、旧市街やビーチ・リゾートにタクシーで行くことが出来る。安全運転だし、料金の心配もない。また、ホテルで自転車を借りて、2~5kmを走るのも楽しそうだ。他の都市のような喧噪はないので、交通事故等の心配も少ないと思われる。

私たちが泊まった「パシフィック・ホテル」には、ロビーに5台のパソコンが備えられていた。インターネットを使えたのが2台だった。その2台も、メールを送ることは出来なかった。こういったサービスにはイマイチの感がある。

ベトナムの交通事情については既に述べたが、ホイアンへのアクセスは極めて悪い。遠く離れたハノイかホーチミンにまず行き、そこで国内便に乗り換えてフエへ、それからバスかタクシーで行かなければならない。要するに、中部ベトナムは、まだ外国に向かって開かれていないのです。開発から取り残されているが故に、地域の特性、個性が色濃く残っている。それが外国人旅行者には魅力的に映るのでしょうか。

10年後ホイアンに行ったら、失望するかも…。もういちど、なるべく早い日に、行ってみたいところです。



ホイアン(1)~熱帯の哀愁

2007年07月13日 11時59分43秒 | 歴史
写真は、ホイアンの旧市街にある「来遠橋」。通称「日本橋」とも呼ばれ、橋の中には「ホイアン」と日本語で書かれた提灯もかかっている。
NHK・TVの「世界ふれあい街歩き」(2007.5.8再放送)で、このホイアンの街を見た。不思議な魅力に惹かれ、どうしても行ってみたいと思った。今回の旅行の目的は、このホイアンなのだ。

徳川幕府が鎖国政策を採る以前、多くの日本人が交易のためホイアンを訪れ、ここに住んでいた。ホイアン名物の「カオラウ」(フォーより腰の強い麺を汁なしで食べる)は、そのルーツが伊勢うどん(これも汁なしうどん)だと聞くと、親近感はさらに強まった。
注意すべきは、彼我の関係は相互互恵的な関係だったということ。のちにフランス人がやったような一方的な収奪などはなく、異なる民族が平和に暮らしていた。その証拠に「来遠橋」の中央には祭壇があり、何かトラブルが起きた時には、そこで仲裁を図ったという。

戦禍を免れた古い家屋には、日本式の天井、中国風の手すりなど、独特の様式が見られる。それだけでも一見の価値がある。

雨期といいながら、雨は全く降らなかった。突き刺すような陽光が降り注ぐ中、木陰には人々のいつもの生活がある。
ホイアンの生活をちょっと見て、「人間らしい」「我々が失われたものを思い出させてくれる」などとしたり顔で言うつもりはない。

それよりも、灼熱の日差しの中で感じた哀愁のようなものは何だったのか。よく分からないが、経済発展によって、そういう哀愁も失われていくのだろうか。



フエ~レプリカの街

2007年07月13日 11時18分59秒 | 歴史
ハノイからフエへ国内便で約1時間。
古都フエは、レプリカの街だった。1968年1月、南ベトナム全土をおおった「テト(旧正月)」攻勢で、フエ(当時はフランス語読みで「ユエ」と呼ばれていた)は、民族解放戦線の攻撃を受け、米軍との戦闘で市街戦の地獄となった。主な歴史的建造物は破壊された。
特に「グエン朝王朝」の王宮は、米軍の爆撃によってことごとく破壊された。いま、我々が見ることの出来るのは、そのレプリカ(複製)に過ぎない。

たとえレプリカでも、この王宮は一見の価値がある。北京の故宮を模した壮大な建造物群は、租税負担に苦しんだ当時の民衆の姿を想起させる。列強が東南アジア地域を植民地化するさなか、こんな建造物に力を注いでいた「グエン王朝」の無能さを見るにつけ、明治維新の偉大さを痛感する。
19世紀初頭、欧米に対抗する近代国家を建設できなかったことが、その後のベトナムの悲劇を招く原因となった。明治維新の際、例えば薩摩藩がフランスに援軍を頼み、内戦となっていれば、間違いなく日本は西欧列強の植民地となっていただろう。

王宮の遺跡には、多くの白人観光客が見られた。注意して見ると、その多くがフランス人だった。(上掲の写真)ディエン・ビエンフーで敗れ去っても、「インドシナ」はいつまでも彼らの記憶の土地なのだ。多分、彼らの思考には、フランス人が非人道的な植民地支配をしたという、エモーショナルな反省など全くないのだろう。「グエン王朝」がフランスに援助を頼み、その法的要請に基づいて植民地化を推進し、無知蒙昧な現地人を「文明化」しようとしたのだ、と彼らは主張するに違いない。だから、彼らの振る舞いは堂々としたものだ。西欧の植民地支配は、支配を正当化できるように、数々の法的な言い訳を用意してきた。

「大東亜戦争」の勃発による日本軍のインドシナ進駐は、ベトナム人を大いに勇気づけた。フランスの植民地支配を、同じアジア人である日本人がうち破ったのだ。だが「大東亜共栄圏」という日本の構想は、西欧人のような悪辣な植民地支配ではなく、よくも悪くもエモーショナルなものだった。
それ故に、日本人は、フエの王宮に立っても自らのアイデンティティを確認することができない…。自分たちがここでやったことに確信を持てないのだ。人命など鴻毛に等しいこの地にあって、いったんは欧米人を駆逐したという歴史的事実は重要だ。日本人が果たしてきた役割をもっと率直に肯定すべきだろう。

「平和」「世界市民」「国際協力」など、きれいな言葉で飾られた日本の教育では、ベトナムの現実は理解できない。白人による苛烈な植民地支配は、アジアの伝統社会を崩壊させ、多くの人命を虫けらのように奪った。現地人には、ろくな教育・技術も施さず、愚民化政策を採った。多額の国家予算を割いて「台北帝国大学」「京城帝国大学」を作った日本の「植民地政策」とは、全く別のものだ。日本人は、アジアの関わりにおいてもっと確信を持つべきだろう。
フエの廃墟に立つと、「憲法第9条」の恒久平和主義など、空虚な呪文に思えてくる。この呪文を守ろうと、屁理屈を重ねている社民党などの政治家、左翼の歴史教師などは、いちどここを訪れたほうがいい。

フォン川の上流70kmはラオス。彼方に見える山は、もうラオス領なのだ。ベトナムの地図の「ウエスト」(腰回り)部分にあるこの街は、地政学的に見て数々の災いを受ける宿命にある。地続きの大陸がもたらす過酷な宿命、こういったことに我々は無知で鈍感すぎるのではないか。

さて、フォンザン・ホテルに戻り、夜の町に出た。治安はすこぶる良さそうで、夜11時でも不安を感じない。ホテルの近くの「カフェ」でビールを注文。すると、バナナの木に囲まれ、夜空の見える中庭に案内してくれた。さらに、蚊取り線香を炊いてくれ、ナッツやフルーツを出してくれた。客は私たち二人だけ。のんびりとした南国の気分を味わった。フルーツのお代わりまで出してくれ、デジカメで記念写真まで撮ってくれて、支払いは30,000ドン(約300円)。あまりに安いので、同額のチップを出そうとしたが、受け取らない。どうしてもと受け取ってもらい、店を出た。
親友ユージ君は、もっと別の店に行きたそうだったが、私には十分満足のいく「南国の夜」だった。






ベトナムの交通事情

2007年07月12日 09時29分30秒 | Weblog

今回の旅行の日程は、次のとおりだった。

①7/5  ハノイへ(ハノイ市内観光) ハノイ泊
②7/6  ハノイからハロン湾観光(マイクロバス)   ハノイ泊
③7/7  夜、フエへ(国内航空便)  フエ泊
④7/8  フエ市内観光、その後ホイアンへ(マイクロバス) ホイアン泊
⑤7/9  ミソン遺跡、ホイアン市内観光(マイクロバス) 夕方、ダナン空港      からホーチミン空港へ(国内航空便)
⑥7/10 深夜1時、ホーチミン空港から東京へ(機内泊)

ベトナムは、南北に細長く、1,600kmある。東京からの国際便は、ハノイあるいはホーチミン(サイゴン)にしか入れない。中部ベトナムのフエとホイアンに行く時は、ハノイかホーチミンのどちらかから、国内便に乗り換えなければならない。ちょうど、札幌(ハノイ)に入り、東京(フエ)と横浜(ホイアン)を訪ねて、福岡(ホーチミン)から帰国するという感じだ。

鉄道や道路事情が悪く、外国人が個人旅行するのは困難なようだ。旅行の前、昨年ハノイに留学していた姪(ベトナム語専攻)からは、「道路を横断する時は、立ち止まったり、後ずさりをしてはだめ。事故になる。」とアドバイスされた。
事実、慣れないうちは、ホテルの前の道路さえ恐くて横断できなかった。ハノイ市街を走る車の多くはバイク。自転車はほとんど走っていない。そのバイクもほとんどが2~3人乗りで、ヘルメットなし。上の写真のバイクは、一番前の女の子が漫画を読んでいて、後ろの女の子は本を読んでいる。まさに信じがたい芸術的な光景だ。
平均給与が1万円くらいで、ガソリンがリッター約90円。市内のアクセスが満員のバスだけとなれば、頼れる足はバイクということだろう。そこに、中国製の安いバイクが大量に流入しているという。

ハノイからハロン湾へ、フエからホイアン、ダナンへの移動は、すべてトヨタ・ハイ・エースで行ったが、「危ない!」と叫びたくなる瞬間に何度も出会った。4車線の国道を走っていた時、突然車が対向車線の追い越し車線に飛び出て、前の車を追い抜いたのには驚愕した。ガイドのホアン(王)さんによれば、人口4〇〇万人のハノイ市内で、毎日1.8人が交通事故死するという。これは、東京に比べると、約7倍という高い数値だと思われる。

ベトナムにはまだ高速道路がない。国内航空便もわずかなので、庶民が細長い国を旅行するには、単線の鉄道か、南北を縦貫する国道1号線のバス旅行だ。特に、中部ベトナムは、発展から取り残されている印象を受けた。
私の目的地ホイアンは、鉄道も、空港もない、ひなびた街だった。ベトナム戦争で有名になったダナンの隣町なのだが、何をするにも30kmほど離れたその隣町に行かなければならないという感じだった。でも、それ故に、旅行者の郷愁を駆り立てるのだろう。

人口の60%が「戦後生まれ」というベトナム。もちろん、戦争とはベトナム戦争のこと。ハノイの市郊外には、「パナソニック」「キャノン」「佐川急便」などの日本企業が進出していた。韓国企業の進出も目立つ。
中国がそうだったように、ベトナムはこれから急激に経済発展していくのだろう。同時に、我々旅行者が求めるものは、急速に失われていくに違いないと思った。

 

 


ハノイ「1912市場」の犬肉

2007年07月11日 16時28分33秒 | Weblog
灼熱のベトナムからなんとか帰国。
いろいろ面白い経験をしたが、最初の驚きは市場の犬肉だった。
メリア・ハノイ・ホテルの隣にある「1912市場」に行くと、食肉用の犬が山積みになっていた。こっそりと撮った写真(上掲)をご覧ください。

韓国や中国の華南地域でも犬肉を食べる習慣があるが、これほどおおっぴらに売られているのは初めてだ。毛をむしられた犬は、ちょっと見ただけでは子豚にも見える。だが、ピンと立った長いしっぽは犬そのものだ。
ハノイからハロン湾へと向かう街道筋でも、オートバイの籠に入れられた子犬を何度も眼にした。もちろん、ペットではなく食用だ。ジョーン・バエズが歌った「ドンナ・ドンナ」を思い出した。

ガイドのホアンさんによれば、われわれをホテルに送った後、夕食に犬肉料理を食べたという。値段は2ドル。かなり高価だ。酒を一緒に飲まないと、必ず下痢をするそうだ。身体を冷やす効果があるので、高血圧の人には向かない。市場の犬肉の中には、狂犬病に感染した肉もあるので、注意が必要だそうだ。

さすがに、食べてみたいとは、思わなかった。

さあ、ベトナムへ…

2007年07月04日 17時01分44秒 | Weblog
明日、ベトナムに行く。わずか6日間だが、ホイアン、フエなどの世界遺産を巡る旅なので楽しみだ。
この1年間は、我が人生で最もひどい1年だったので、今回の旅行で”厄落とし”をしたいと願っている。

昨晩、「筑紫哲也News23」で、元毎日新聞サイゴン特派員が40年ぶりにホーチミン市を訪れ、元「ベトコン」兵士と再会するという特集を見た。当時、その特派員が遭遇した「ベトコン」兵士のうち、現在生存していたのはたった1名だった。なんという悲惨…。

それに比べれば、日本で何があったとしても、まあたいしたことじゃないね…と思えた。