澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「日本人の文革認識」(福岡愛子著)を読む

2014年02月26日 20時24分56秒 | 
 「日本人の文革認識~歴史的転換をめぐる”翻身”」(福岡愛子著 新曜社 2014年1月)を読む。



 本書は著者が東京大学に提出した博士論文に基づく。その要旨については、「論文の内容の要旨」に詳しく掲載されている。
 本書の構成は、次のとおり。

序章 歴史の転換点に伴う問題的状況にどう迫るか
Ⅰ 「翻身」をキーワードとする分析枠組み
Ⅱ 戦前世代の青年期における根源的・個人的変化
Ⅲ 日中復交をめざす政治としての文革認識
Ⅳ メディアにおける政治としての文革認識
Ⅴ 革命理論・思想としての文革認識
Ⅵ 運動としての文革認識
Ⅶ 「六〇年代」の学生運動と文革認識
終章 文革認識の語り方と「翻身」の意味


 団塊の世代の一年下である著者は、1970年前後の学生運動に多大な影響を受けた世代である。当時の学生に影響を与えた中国の「文革」(プロレタリア文化大革命)を通して、同時代に関わった関係者への聞き取りを交えて、本論を展開する。
 
 本書のタイトルにある「翻身」は、1972年、日本語訳が出版されたウィリアム・ヒントン著「翻身」(ファンシェン)に由来する。著者ヒントンが中国の農村に入り込み、文革が「人間を生まれ変わらせた」現実の記録として、全共闘世代にもてはやされた。

 だが、当時の「文革中国」が自由な取材を許可していたはずはない。農民への聞き取りと称するものも、実は当局が選定した農民を当局が派遣した中国人幹部の英語通訳者を通してまとめたものだった。本多勝一「中国の旅」(朝日新聞社)も全く同じパターンの「ルポルタージュ」だった。エドガー・スノーアグネス・スメドレーの流れを汲むこのような「中国感動物語」には、中国のプラス・イメージを宣伝しようとする中共(=中国共産党)当局の意図が働いているわけで、今やそのまま鵜呑みにする人はいない。何故、著者がこの「翻身」という手垢にまみれた言葉を論文執筆のキーワードとして使ったのか、私には理解できない。

 「中華帝国」の再興を目指し、その不安定な内政を「反日」ではぐらかそうとする現在の中国を見れば、文革期の中国など「可愛げな」存在にさえ思えるだろう。そう、時は移ろい、「文革」は遠い彼方の、忌まわしい昔話となってしまった。

 
 本書の中で私が興味を持ったのは、新島淳良のケースだ。新島は、旧制一高中退という学歴ながら、早稲田大学政経学部教授(中国語)を勤め、「毛沢東思想」を高く評価する人物として有名だった。この本の中で本人が述懐しているのは、「文革」「毛沢東思想」を宣伝するためには、あえて「文革」の負の部分(武力抗争、紅衛兵の残虐行為など)には目をつむったという事実である。「中国」専門家を自称しながら、実は、当時の中国共産党の「宣伝係」だったと、ここで「担白」(=告白)しているのだ。
 「文革」が収束に向かう過程で、新島は中国の非公式資料を使って「毛沢東最高指示」を出版したが、このことが中国当局の怒りを買い、「日中友好運動」から破門される。


 『…「毛沢東最高指示」出版後については、「親中国派」からの猛烈な非難を受けたこと、その理由は中国が禁じている資料を公表し、また「台湾から出ているいかがわしい資料を使っている」ためだったっことが回想されている。中国ユートピアをともにする「戦友」ともいうべき「A教授」からも、かつて全世界の知識人とプロレタリアートが革命直後のソ連を擁護したように中国を擁護すべき時だ、と言われ、自己批判するよう忠告された。それらの反応は予想してはいたが、しかし日中関連の運動からことごとく排除されて、「親中国」陣営内で四面楚歌状態になると、新島は中国について書く気が全くなくなったという。』(本書p.186-7)


 ここに書かれているA教授とは、新島の同僚だった早大政経学部教授・安藤彦太郎のこと。安藤は、新島とは異なり、中国当局との太いパイプを誇示しつつ、定年まで早大教授の座に留まった。この件で新島は、早大教授を辞し、「ヤマギシ」に入って、コミューン幻想をさらに追い求める。「ヤマギシ会にも小毛沢東がたくさんいた」という迷言を残して、一旦はヤマギシ会を去る新島だが、その後、同会に舞い戻って、不遇な最期を遂げた。
 同じ「反日共」「親中国」の左翼学者でありながら、この二人の身の処し方は、あまりに対照的だったが、自らを「前衛」と自惚れ、狭量な党派意識、独善的世界観で凝り固まった「日中友好屋」という点では「同じ穴のムジナ」だったと言えよう。

 本書には、このように「文革」に取り憑かれた人々が、ケーススタディの対象として何人も登場する。例えば、朝日新聞北京特派員であった秋岡家栄西園寺公一の長男である西園寺一晃などだ。
 あの時代を知らない若い世代が本書を読んだ場合、日本中の多くが「日中友好」「文革」に熱中していたと勘違いしかねないが、実際はそんなことはなかった。真のエリート(東大法学部を頂点とする)は「中国」にさして関心を示さず、将来性の確かな本道を選んでいた。一方、「中国」に憑かれた人々は、現実の社会に対する不安や不満を、中国を「ユートピア」に見立てることで解消しようとしていたと言えるのだろう。それは、大学を卒業しても、少数のエリート校を除いては、さしたる社会的な地位を得られなくなったという現実とまさにリンクしていた。

 「文革」に憑かれた人々のみに着目する著者が全く言及していないことだが、「中国研究」という小世界でも、「文革」や中国の現実を冷徹に分析した研究者がいた。石川忠雄(故人・元慶應義塾長 中国政治)や中嶋嶺雄(故人 前国際教養大学学長 国際関係論)、柴田穂(故人 産経新聞北京特派員)などは、新島のような「中国に憑かれた人々」とは正反対の立場にいた。そのどちらが正しかったかは、今や明らかである。

 
 「翻身」をキーワードに日本人のごく一部に過ぎない親中国派の「分析」をおこなった本書は、個人的にはデジャブ感いっぱいの「昔話」に過ぎなかったのだが、若い世代はまた異なった「物語」をそこに読み取るのかも知れない。

いま何故、「アンネの日記」破損事件なのか?

2014年02月25日 22時00分15秒 | マスメディア
 マスメディアは、ソチ五輪で大はしゃぎ。ようやく終わって、ほっとした人もいるのだろうか。
 このところ、公共図書館での「アンネの日記」破損事件が急速にクローズアップされてきた。今日、福島原発四号機の電源が停止したという憂慮すべきニュースが飛び込んできたのに、TV、ラジオではこのニュースにはほぼ目をつむり、「アンネの日記」事件を騒ぎ立てている。所詮、「マスゴミ」はそんなものと思ってしまうが、「アンネ…」については、少々思い出したこともあるので採り上げる。

 そもそも、何故、複数の自治体で「アンネの日記」が破損されたのか、それがどうして判明したのかという疑問がある。それは公式には、特別区(東京二十三区)図書館長会で話題になったからだと説明されている。だが、「あれ?」と思うことがある。確かこの会は、二十年くらい前にも、同じ情報を流したことがあるはずだ。そのときは、「マスゴミ」が政権叩きに使うほどのネタではなかったと記憶するが、今回はまるで違う。この些細な事件が、「右傾化する日本」を世界にアピールする根拠ともなりかねないのだ。

 もし、特別区図書館長会に特定政治勢力が介在して、「アンネ…」事件をでっちあげたとしたら、これほどリスクの少ない”政治テロ”はないだろう。図書館法で守られた公共図書館は、貸し出し履歴の消去が義務付けられていて、利用者のプライバシーが厳格に守られている。「犯人を防犯カメラで捜せ」などという意見は、図書館のイロハを知らない人の言葉だ。

 
 多分、昨今の図書館利用者のマナーはすこぶる悪いのだろう。「アンネ…」だけでなく、池田大作、姜尚中、大川隆法あたりの本は破られたりしていないのか、調べて欲しいものだ。図書館長会が「アンネ…」だけに何故着目したのかも知りたいところだ。

 それにしても、安倍政権叩きには、ジャストタイミングの「アンネ…」事件。特定の政治的意図を持った犯行なのか、はたまた「チビ黒サンボ」のようなマニアックな「プロ市民」の仕業なのか。「アンネ…」を破くのは「右翼」と意味ありげに報道するマスゴミを信じてはならない。いずれにしても、この事件は「日本の右傾化」などとは無関係だろう。
  


「アンネの日記」の被害、305冊に 警視庁が捜査本部

2014年2月24日22時21分 「朝日」


 ナチス・ドイツによるユダヤ人弾圧下の生活を描いた「アンネの日記」や関連書籍が都内の図書館で相次いで破られた事件で、警視庁は24日、器物損壊容疑で捜査本部を設置した。同日までに305冊の被害を確認したという。

「アンネの日記」破られる

 捜査1課によると、被害に遭ったのは新宿、中野、杉並、豊島、練馬の5区と武蔵野、東久留米、西東京の3市にある計38の図書館。豊島区では昨年2月に被害が判明したが、杉並区では今月上旬に破られた可能性が高いという。同課は防犯カメラの解析などを進める。

 新宿区内では、3館で計40冊が被害を受けた。区立中央図書館の藤牧功太郎館長は「強い動機と計画性のある犯行だと思う」。東久留米市立図書館では約5センチの厚みのあるアンネ研究本が100ページ以上破られた。



映画「KANO」 いよいよ公開!

2014年02月15日 12時51分49秒 | 音楽・映画
 台湾映画「KANO」が今月27日、台湾本国で公開される。
 この映画は、1931年、甲子園全国中等学校野球大会に出場した旧制嘉義農林学校野球部の青春を描く。「KANO」は「嘉農」、すなわち嘉義農林学校の略称である。
 
 5年ほど前になるだろうか、「世界ふしぎ発見!」(TBS系)が台湾南部を特集したとき、嘉義大学野球部のグラウンドに、甲子園大会に出場した野球部OBたちが集まった。当時でも八十歳半ばだった彼らは、日本人と全く変わらない日本語を話し、番組の女性レポーターが差し入れたおにぎりを美味しそうに食べた。

 この番組を見るまで、私は台湾の学校が甲子園に出場した事実を全く知らなかった。同じ時期に映画「海角七号」を見て初めて、日本と台湾の”絆”を考えさせられた。

 あの「KANO」の老人達は、今どうしているだろうか。元気でおられるのだろうか、と思った。ネットを検索したら、あるブログにすでに全員故人になられたと記されていた。

 この映画がきっかけになって、若い人達に日本と台湾の”絆”を知ってもらいたいと思う。かく言う私も未だ見ていないけど…。 


 
【ストーリー】
1929年に誕生した日本人、台湾人、原住民による嘉義農林野球部が新任監督の近藤兵太郎を迎え、スパルタ式訓練で「甲子園進出」を目指すことになった。のんびりしたチームだった嘉農野球部は、近藤の鬼のような特訓を1年間受けると、連敗続きの野球部員も勝利への強い意志が沸き、甲子園出場の夢を抱く。
そしてついに1931年、台湾予選大会で連勝を続け、日本人のみの常勝チームであった台北商業を打ち負かして、濁水渓から南部の学校で初めて台湾代表大会での優勝。嘉農野球部は台湾の代表チームとして、日本への遠征へと赴く。
夏の甲子園で戦った嘉義農林チームの、1球たりとも諦めない感動的なプレイが5万5千人の大観衆の心を掴む。嘉義農林は台湾野球の歴史に大きな功績を残した。球児たちの恐れを知らず勇敢に自分に挑戦する姿は、ある意味真の勝利なのかもしれない。決勝戦で敗れた嘉義農林チームに、観客席から熱い声援「戦場の英雄…天下の嘉農…」が送られる。







45年ぶりの大雪と1969年の"不条理" 

2014年02月14日 21時58分05秒 | Weblog
 首都圏では45年ぶりの大雪と騒がれたようだが、45年前と言えば1969年、ちょうど東大入試中止の年だった。それ以来の大雪だとは思っても見なかったが、こんなに降ると雪掻きが大変だ。



 45年前の大雪の東京でどんなことが起きていたのか。あるブログを見つけたので、引用してみたい。当時の記憶が蘇ってくる人もいるのかも知れない…。


今週の話題「母校への苦言」2014年2月14日

 先日東京に雪が降り積雪27cmを記録し1969年3月12日以来45年振りと報道されました。1969年は小職が大学に入った年です。学園紛争激しき時代で1969年の東京大学入試は東大紛争で安田講堂事件が生じて「入試中止」となりました。従って1973年に我々は卒業しましたが同年の東京大学卒業生は基本的に皆無だったはずです。
 この1969年の大学入試は大混乱となり戦後最難関となったのは事実だと思います。国立一期一橋大学を目指して浪人の道を選んでいた小職は「革命前夜」を思わせる東京に一年いる間に更に浪人生活を続けるわけにはいかない「私立大学」でもはいってしまおうと言う心境になっていました。
 四谷に上智大学があることを認識したのも「東大紛争、東大入試中止」の影響でした。この年は私大の倍率も急上昇で上智大学法学部の実質倍率も10倍を超えていました。上智大学でも大学紛争中であり「ロックアウト中」で玄関はバリケードで封鎖され物々しい雰囲気で入試は実施されました。合格発表も異例で大学前のグランドの弓道場のところで合格者番号をプリントしたA4の用紙が配られており、雨の中傘をさしながらグランドへ降りて合格番号を受け取りました。
 入学式の日続いていた「ロックアウト解除」の学生集会がグランドで開催され、「ロックアウト解除阻止」を叫ぶ全共闘はヘルメット、角材なしで入場し、丸ノ内線のホームからヘルメットと角材をグランドに投げ入れ武装した全共闘と新入生であった小職を含む「一般学生」との間で何回も武力衝突が起き流血の中「学生集会」は粉砕を免れ大学側の「ロックアウト解除」宣言が可決されました。登校初日にまさか「流血事件」とは思わず帰り道一枚しかないズボンの膝に隣にいた人の血が付いており「明日どうしよう」と思いました。
 36クラスに振り分けられた小職のクラス担任はスペイン人のホセ・ヨンパルト神父でした。先生の嬉しそうな第一声は「とうとう慶応を抜きましたね」でした。長年私立法学部の最難関は早慶上智の三校と言われてきましたが、ヨンパルト教授はこの年、早稲田-?上智--?慶応の順となり上智が慶応を抜いたことがよほど嬉しそうに見えました。クラスでの自己紹介があり、半分以上の学生は早稲田や慶応にも合格したけど上智を選らんだ学生でした。当時の上智大学法学部は一学年200名の国立並みの少人数で商法の鈴木竹雄教授、民法の有泉亨教授、民事訴訟法は村松定孝教授、刑法は内田文昭教授、労働法の花見忠教授、商法の西迪雄教授、田村諄之輔教授など後に「上智法学部の黄金期」と言われたほど充実した教授が揃っていました時代でした。刑法の内田文昭教授のゼミを2年間受講していた小職は同時期に中央大学法学部でも刑法を担当していた内田文昭教授から「中央に比べたら君たちの方がずうっと上だよ」と聞いたことを良く覚えています。」
 以来45年が経過し現在の母校上智大学法学部の学力水準は慶応より上とは客観的に見て言えず、45年間足踏みどころか「退歩」していると言わざるを得ないと思います。このよき日に上智大学法学部の同窓会が成立することは誠に喜ばしく心よりお祝い申し上げますがもう一度1969年に立ち返り、私立大学法学部の「雄」となるべく教授陣の充実と在学生のレベルアップを法学部全体で再スタート戴きたく敢えて「苦言」を呈する次第です。   井上豊夫 


果し得ていない約束―三島由紀夫が遺せしもの
井上豊夫著
コスモの本




「蒋介石の外交戦略と日中戦争」(家近亮子著)

2014年02月10日 11時33分50秒 | 
 「蒋介石の外交戦略と日中戦争」(家近亮子著 岩波書店 2012年)を読む。
 
 中国研究の世界では、戦後から改革開放期に至るまでもてはやされた毛沢東・中国共産党史の研究が衰退し、今や蒋介石の国民政府期(1931~1949)に関心対象が移っているという。この著作もその成果のひとつで、これまでの学界の大勢を占めてきた「中共史観」をうち破ろうと試みている。
 戦後の中国研究は、戦前の日本軍国主義を批判し、それに抵抗・勝利した「新中国」にシンパシーを寄せるという研究が主流だった。中国(中華人民共和国)政府の公式史料を使わずに、中華民国(台湾)で発行されていた専門誌「中共研究」を引用したというだけで、「反中国」だと非難され、学界を逐われた研究者も出現した。「親中国」か否か、すなわち毛沢東の中華人民共和国、蒋介石の中華民国のどちらを支持するのかが、「踏み絵」になったような時代が続いた。そんななかでも、故・石川忠雄氏(慶應塾長・中国政治史)門下のグループは、時流に流されず、冷徹な中国研究を進めた。そのひとりがこの著者である家近亮子氏だ。



 1938年、日本は第一次近衛文麿声明で蒋介石の国民政府を「対手とせず」とした。その後、日中戦争は泥沼の深みに陥っていく。このとき、蒋介石が外交、内政問題をどう見ていたか、本書には興味深い史実が数々示されている。特に際だつのが、蒋介石の歴史眼の確かさ、構想力の大きさだ。蒋介石は欧州大戦の動向を見極めるとともに、日本の対米、対ソ関係を注視し、「以夷制夷」を目指した。民衆にどんなに犠牲者が出たとしても、あえてそれには目をつむり、「中華民族」の最終的な勝利を目指した。これは、いきあたりばったりで「大東亜共栄圏」を唱えた日本政府とは大違いだった。今日、中国が国連で常任理事国の椅子に座り、国連公用語の一つが中国語であり、中国政府が尖閣諸島の領有権を主張できるのも、蒋介石の言う「惨勝」の果てに中国が手にした果実に他ならない。

 蒋介石も毛沢東も「日本軍閥」と「日本人民」を峻別した。二人は最終的に中国が勝利することを確信していて、終戦後、「日本軍閥」を解体したとしても、「日本人民」の恨みは買わないようにと巧妙な戦略を巡らした。
 日本敗北後、権力の空白が生じた中国大陸では、国民党が中国を統一するかと思われたが、最終的に中共(中国共産党)が国民党を台湾に追い出して、大陸を統一した。「国民党の腐敗がひどく、国民に見放されたため」というのが従来の一般的な説明だったが、事実はソ連の強力な軍事援助によって、中共が国民党軍をうち破ったためだということが、本書で明らかにされている。
 
 蒋介石の妻である宋美齢、その甥の宋子文が、中国の立場を米国や欧州諸国にPRしたことも、欧米諸国に中国への同情を深めさせ、日本を「悪者」として描くことに大きな成果を挙げた。日本はこのようなロビー活動では、中国と比して圧倒的に劣勢だった。それは、現在までずっと続いている。

 本書によって、従来語られることの少なかった蒋介石の外交戦略、歴史観がよく伝わってくる。習近平の中共政権は「中華帝國」の再興を広言するが、これこそ蒋介石が思い描いてきた「中華」と同一なのだと思い至る。

佐村河内事件と「Jクラシック」

2014年02月07日 11時26分21秒 | 音楽・映画
 ブックオフで買った「わたしの嫌いなクラシック」(鈴木淳史著 洋泉社新書)を読んでいたら、ちょうど佐村河内事件が発覚した。鈴木淳史(音楽評論家)は、この本の中で、「Jクラシック」を論じている。「Jポップス」に対置していつのまにか付けられたこのジャンルは、①名前ばかりで、箸にも棒にもかからない下手な演奏、②「求道派」、③「土着派」に分けられるという。

 「求道派」の代表は、小沢征爾で、「クラシック音楽を西洋伝来のものとして捉え、本場の演奏に近づけるべく、日夜努力するタイプ」である。一方、「土着派」は、「こちとら日本人やで、本場と同じなんて無理やわ。せやかてわては日本なりのやり方をさせてもらいます」というタイプで、朝比奈隆がその代表だという。(同書より)

 このどちらを突き詰めて行くにしても、つまるところ、「私は日本人」という現実に突き当たる。これは、西欧列強に開国を迫られて、「近代化=欧米化」を成し遂げた我が国・日本人の宿命でもある。
 東日本大震災以降、「世界に誇れる日本・日本人」「こんなに素晴らしい日本」といったコンセプトのTV番組が大流行しているのも、不安な将来しか見えない現在の日本を無意識に反映しているのだろう。

 「世界に誇れる日本のラーメン」と騒いでみても、中国大陸やシンガポールの華人から「それはウチらが本家やで」と言われれば、何も反論できないように、日本文化と信じているモノの多くは、実は外来モノなのだ。
 クラシック音楽は、紛れもなく欧州文化の精華だ。これをどんなに突き詰めていっても、所詮、「日本一のラーメン」にしか辿り着かない。

 この鬱屈を解消するのにピッタリだったのが、「Jクラシック」。国内市場=内需だけで成り立ち、自画自賛・我田引水していればいいのだから、夜郎自大の満足にふけることもできた。
 「ヒロシマ」「平和」「市民の祈り」…こんなコンセプトの佐村河内・交響曲が20万枚も売れ、「現代のベートーベン」(NHKスペシャル)「ベルリン・フィルにも演奏させたい」(大友直人)、「稀に見る天才」(五木寛之)と騒いでいるうちは天下泰平だった。CDを買ったファンも「障害者=弱者の”心の叫び”を理解できる私はなんてイイ人」という自己満足に浸ることができた。




 だが、新垣隆氏の告白がすべてを変えた。「ヒロシマ」「平和」「祈り」も所詮は詐欺師の金儲けのためだと暴かれた。東日本大震災の復興を願うという「花は咲く」という歌も、こうなっては白々しく響いてくる。
 これって、戦後日本のあゆみ、「戦後の虚妄」を戯画にしたように私にはみえるのだが、どうだろうか?

詐欺師・佐村河内守を「スター」にしたNHKの責任を問う

2014年02月06日 21時48分51秒 | 音楽・映画
 今日、佐村河内守の作品を書いたという新垣隆・桐朋学園大学講師が記者会見して、「事件」の真相を語った。その映像の一部を下記に貼付した。



 
 昨日までYouTube上に存在していた「交響曲第一番HIROSHIMA」の演奏風景の映像は、予想通り消去されていた。この曲を指揮した大友直人が「ベルリン・フィルにも演奏させたいほどの名曲だ」という噴飯モノのコメントをしていたから、これ以上、公開されるのは耐えられなかったのだろう。他にも、五木寛之が「天才と言っていい」と佐村河内守を絶賛したりしているのは、今になれば赤恥モノと言っていい。
 

 だが、マスメディアの反応を見ていると、枝葉末節に大騒ぎして、コトの本質をはぐらかしているとしか思えない。先ほど、俳優の今井雅之が「物語を作ってしまうマスメディアに問題がある」とズバリ指摘していた。NHKスペシャルが「感動物語」風のタッチで佐村河内守を採り上げなければ、これほどの大問題にはならなかったはずだ。番組を作る過程で、事実の確認よりも、受け狙いが優先した故に、こういう結末になったのではないのか?

 当該番組のプロデューサーが、かつて「筑紫哲也ニュース23」を制作していたと聴いて、ある種のイデオロギー性も気になった。筑紫哲也の過剰なまでの沖縄、ヒロシマへの”思い入れ”は有名だったが、その番組を制作した人物が、佐村河内守という人物を通じてヒバクシャ、ヒロシマを強調する。これに疑問を持つ人は、まるで「良心がない」人のように思わせる…。それがこの番組の本当の狙いではなかったのか。

 障害者を差別するのか、心ないことを言うな…こういう綺麗事の合唱の中で、この事件の本質が歪められていく。障害者にもワルはいるし、詐欺師もいる。その詐欺師に引っかかって、あるいは共謀して、「感動物語」をでっち上げたTV局員もいるということだ。CDを買って「佐村河内の心の叫びが分かる私はいい人」などと思いこむ必要は、さらさらなかったということだ。



NHKが作り上げた「現代のベートーベン・佐村河内 守」

2014年02月05日 21時10分33秒 | 音楽・映画
 広島生まれで、耳が不自由な作曲家・佐村河内 守は、先年、NHKスペシャルが大々的に採り上げて、一躍有名になり、自作曲「交響曲第一番 HIROSHIMA」は「Jクラシック」業界で久々のヒットCDとなった。



 だが、今日、佐村河内守の作品は、すべて他人が作ったものだと暴露された。夕方のNHKニュースでは、「市民」が「残念だ」「信じられない…」といった声を放送したものの、作曲家・佐村河内守を世の中に知らしめたのがNHKスペシャルの番組だったことには一切触れず、責任を感じたようなコメントもなかった。

 私は当該番組をみたとき、全聾の人が、本当にこんなオーケストレーションまでできるのか疑問に思った。少しは耳が聞こえるのだが、聞こえないふりをしているのではないかと訝った。「現代のベートーベン」とまで讃えて、佐村河内 守にスポットライトを当てたNHKなのだから、何らかの釈明、説明があって然るべきだろう

 マスメディアはNHK新会長や百田尚樹長谷川三千子経営委員の言動ばかりあげつらっているが、NHKの新経営陣に期待すべきは、ドキュメンタリー番組の検証だろう。「アジアの”一等国”」で示されたように、平気で歴史を捏造するNHKの体質を糾すのが、新経営陣の責務であるのだから。



 この佐村河内 守事件、①被爆者、②障害者を持ち上げるだけ持ち上げて、最後に奈落の底に突き落としたという印象を受ける。NHKが被曝・障害の二重苦を背負った作曲家の「感動物語」というドキュメンタリー番組を作らなければ、このような醜い騒ぎにはならなかったはず。公共放送NHKの責任は、重大だ。






《CDをリリースした日本コロムビアの弁明》

関係各位

2014年2月5日

作曲家 佐村河内守氏につきまして

本日、当社は作曲家  佐村河内守氏の代理人弁護士より、
佐村河内守氏は10数年前より自身の作曲活動について、
記譜行為などの一部の作曲行為を
特定の第三者の手により行ってきたとの連絡を受けました。

当社といたしましては、
この内容に驚愕しており、大きな憤りを感じております。

当社より発売いたしました佐村河内守氏作曲の作品については、
当然に本人からは「自身が作曲した作品である」との説明を受けており、
更に、佐村河内守氏は自身が作曲者である旨を
著作権管理団体に対して登録していることを確認の上で、
販売を行って参りました。

しかしながら、当社より発売したCD等の商品につきましては、
結果として、作曲者については不適切な表示であり、
また、創作活動の背景などについても誤った表現をしたまま
販売活動を行ってきたこととなります。

この点につきましては、商品の発売元として責任を痛感しており、
深くお詫び申し上げます。

今後は、当社としても今回の事態に関する事実関係を精査した上で、
再発防止策を検討して参ります。



佐村河内守氏「自分で作曲してませんでした」聴力失った現代のベートーベン
2014/2/ 5 12:02
聴力を失った作曲家として、「現代のベートーベン」と呼ばれる佐村河内守氏(50)に、ゴーストライター疑惑が出た。スポーツ紙などの報道を受けて、佐村河内氏もNHKの取材に「申しわけない」と謝罪したという。いったいどういうことなのか。
CD売り上げ18万枚!クラシックとしては異例の大ヒット
佐村河内は広島出身。両親は被爆者で、幼児のころからピアノを習い始めて音楽の道に進んだ。1997年に映画「秋桜(コスモス)」やゲームソフト音楽で注目されたが、17歳で発症した聴覚障害が進み、35歳で完全に聴力を失い、以後は音符だけで作曲を続けてきたとされる。米誌『タイム』は「現代のベートーベン」と紹介した。

おととし11月(2012年)のNHK「情報LIVEただイマ!」で取り上げられ、1年以上前に出したCD「交響曲第一番HIROSHIMA(03年作曲)」が「アマゾン」の音楽ソフト総合チャート で1位になった。昨年3月(2013年)のNHKスペシャルでも報じられ、CDの売り上げは18万枚と、クラシックでは異例の大ヒットとなった。
『スポーツニッポン』紙によると、「本当は自分が作曲した」という人物が告発する準備を進めているといい、佐村河内の関係者も「共同制作者的な存在はいる」と認めている。両者の間で何らかのトラブルがあったらしい。けさ5日(2014年2月)の7時のNHKニュースは、佐村河内本人の「大変申しわけなかった」というコメントを伝えた。
司会の小倉智昭「ご本人の?」
笠井信輔キャスター「はい。つまり、疑惑の域を出てしまったということです」
イメージを伝えて別人が曲つくり
小倉「クラシックは万単位でヒットですから、10万枚超えたら大ヒット。HIROSHIMAっていい曲なんで、オーディオ雑誌で推奨したこともあるんですよ。本人が作曲したと思いますからね」
情報の出どころはゴーストライターの代理人弁護士で、佐村河内は十数年前からこの人物に曲のイメージなどを伝えて曲にしてもらっていたという。これは一種の共同作業をうかがわせるが、共同通信は「別の人物が作ったものだった」としている。
『佐村河内の作品』の「ヴァイオリンのためのソナチネ 嬰ハ短調」は、ソチ五輪フィギュアスケートの高橋大輔選手がショートプログラムで使う予定になっている。笠井は「年末の全日本選手権でも使っていたので、そのまま使われるのでは」という。
小倉「曲自体がよければいいわけだし。ただ、実際に作った人と話し合いができていたのかなあ。これから何らかの法的措置をとるのか微妙でしょ」
日本コロンビアは「とくダネ!」の取材に、「驚いている。弁護士がだれだかもわからない。確認中です」と答えたという。
小倉「はじめから共作にしておけば、こういう問題にならなかったのに。曲はいいんですから」
 

台湾映画「あの頃、君を追いかけた」

2014年02月04日 23時03分42秒 | 音楽・映画
 台湾映画「あの頃、君を追いかけた」(「那些年,我們一起追的女孩」You Are the Apple of My Eye 2011年)を見る。





 映画の出発点は、1994年、彰化の中高等学校。ほろ苦い青春の思い出と、大人への成長が描かれる。
 女子学生のお弁当の横にヤクルトが置かれていたり、学校の帰りに今川焼きを食べる姿。男子学生が飯島愛など日本のAVビデオに夢中になるシーンなど、日常生活に投影された「日本」の残影も興味深い。何よりも、学校そのものが、日本の学校とそっくりなのだ。

 主演の柯震東(クー・チェンドン)、ミシェル・チェン(陳妍希)がいい。陳妍希は最初全然美人に見えなかったが、後半になるにつれて美しく見えてきた。 



「身体を躾る政治~中国国民党の新生活運動」

2014年02月02日 10時57分56秒 | 
 「身体を躾る政治~中国国民党の新生活運動」(深町英夫著 岩波書店 2013年)を読む。
 本書については、著者自身の簡潔な紹介がある。詳しくはそれを読んでいただくとして、若干感じたことを記そうと思う。



 1934年から1949年まで、中国国民党の国民政府支配下にある地域において、「新生活運動」なる社会運動が展開された。具体的には、つぎのような95ヵ条からなる「新生活須知」によって示された。

(「新生活須知」 本書p.5より引用))

 この「新生活須知」には、高邁なスローガンが掲げられている訳ではなく、むしろ日常生活の基本がどうあるべきか示されている。一読して分かるように、早寝早起き、身だしなみ、礼儀作法、社会生活の基本などが具体的に示されている。蒋介石がこの運動を提唱したのは、日本留学時代の実体験に基づくとされる。すなわち、日本がいち早く近代化に成功したのは、「新生活須知」に掲げられているような社会規範を身につけた「国民」を日本が創出できたからだと理解したからに他ならない。そこで、「賢人支配の善政主義」(横山宏章)に基づき、無知で遅れた大衆にこのような規範を示したのだった。

 「…創造されるべき近代的国民の原型たることに、支配の正統性原理を求めていた国民党は、さながら自身に似せて人間を創造した神のごとく、国民の創出という責務を抛擲することはできなかった。なかんずく蒋介石は、中国の独立と統一脅かしつつあった日本に対抗するため、まさにその日本で”身体の躾”を受けた自身を模範として、中国人民を勤勉かつ健康な近代的国民に改造することを企図する。…中国では国民皆兵・国民教育の制度が非常に遅れていたため、上からの大衆運動という方法で、”身体の躾”が試みられなばならず、それゆえ新生活運動が発動・推進されることになったのである。」(本書p.324)

 中国に旅行すると実感するのだが、「新生活須知」に書かれている「駅で切符を買うときは一人ずつ順番に進むこと」「乗物に乗り降りするときは、女性・子供・老人・弱者を助けること」などは、現在の中国大陸でも全く守られていない。公衆道徳の欠如という観点から見れば、それは中共がもたらした暴政(大躍進、文化大革命など)に大きな責任があるのだろう。

 1968年、中国大陸に文革の嵐が吹き荒れる中、中華民国=台湾では、「国民生活須知」99項目が公布・施行されたという。それは、半世紀前の「新生活須知」と酷似したものだったという。それだから、というつもりは全くないが、そう言えば、台湾の公衆道徳は見事なものだと思う。

 最近の中国研究の動向として、国民政府時代に関心が高まっているという。中共(=中国共産党)研究への幻滅、あるいは左翼史観の呪縛から解き放されたからなのだろうか。本書も、その流れを汲む研究として、極めて興味深く読んだ。