澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

佐々淳行氏が見た菅直人

2018年10月12日 14時02分56秒 | 政治

 今日(12日)の「産経新聞」、「阿比留瑠比の極言御免」は「佐々氏が見た菅元首相」という記事を載せている。

 福島原発事故で錯乱状態に陥った菅直人という男の原点が、この記事を読むとよくわかる。菅の言う「市民主義」なるものが、彼自身の利己主義、機会主義、出世欲、名誉欲、権力欲などあらゆる醜悪さを覆い隠す上着に過ぎなかったこともよくわかる。故・佐々淳行(さっさ あつゆき)氏が述懐したように、全共闘時代の菅が一度でも逮捕されていれば、我々も福島第一原発にヘリコプターでノコノコと出かけるような「首相」の姿を見ずにすんだはずだった…。

 全共闘世代、それに重なる団塊の世代なるものが、いかに無能で無責任な世代であったか。そのこともよく示す記事だった。

 

佐々氏が見た菅元首相

 10日に亡くなった初代内閣安全保障室長、佐々淳行さんに初めて取材したのは24年前、平成6年のことだった。それから折に触れ、実体験に基づくコメントをもらったり、時事問題に関して意見を聞いたりする機会があり、含蓄のある話にいつも感心していた。

 佐々さんは昭和47年2月、連合赤軍メンバーが長野県軽井沢町の別荘に立てこもった「あさま山荘事件」では、警察庁から派遣され現地で指揮を執った。その際、当時はまだ名前が売れていなかった「カップヌードル」を持ち込んだ。

 「零下15度の寒さ。長野県警の感覚では、非常食といったら乾パンと握り飯ぐらいだったが、それでは温まらない。カレーライスも作ってみたが、すぐ凍って食えたものではない」

 佐々さんは、警視庁警備1課にキッチンカーを2台用意させてお湯を沸かした。厳寒の山中で機動隊員らがカップヌードルをすする姿がテレビ中継され、流行に一役買ったという。

 捜査・監視対象に

 佐々さんの話はどれも興味深いが、特に印象に残ったのは、立憲民主党最高顧問である菅直人元首相のエピソードだった。菅政権当時の平成23年、こんな衝撃的な言葉を聞いた。

 「あのとき、少々無理をしてでも菅氏を逮捕しておくべきだった」

 佐々さんは警視庁警備1課長当時、菅氏の母校である東京工業大の加藤六美学長の要請で、菅氏を捜査・監視対象にしていた。加藤氏は、学生運動家だった菅氏が、アジ演説がうまく学生をあおって過激な行動を取らせることに困り果て、相談してきたのだという。

 ところが「第4列の男」と呼ばれ、他者の陰に隠れて逃げることにたけた菅氏もさる者で、なかなか尻尾をつかませない。佐々さんは逮捕をあきらめたが、その後の菅氏の言動を見て思うところがあったのだろう。

 菅氏は22年6月、就任後初の所信表明演説で、婦人運動家の市川房枝元参院議員の名前を挙げ、こう訴えていた。

 「私の政治活動は、今をさかのぼること30年余り、参院議員選挙に立候補した市川房枝先生の応援から始まりました」

 菅氏はこのほか自己紹介のたびに市川氏との関係を強調していたが、ここでも佐々さんと接点がある。佐々さんの実姉である紀平悌子(ていこ)さんは、市川氏の秘書を務めていたのである。

市川房枝氏を利用?

 あるとき、佐々さんが姉に「市川さんは菅氏を評価しているのか」と聞くと、姉は冷ややかに答えた。

 「何を言っているの。市川さんは『菅はよくない』と本当に怒っているわ」

 実際、市川氏は著書『私の国会報告』で、昭和51年の衆院選に出馬した菅氏についてこう書いている。

 「私の名前をいたる所で使い、私の選挙の際カンパをくれた人たちの名簿を持っていたらしく、その人達(ひとたち)にカンパや選挙運動への協力を要請強要…」

 衆院議員となった菅氏は、政治家のパーティーなどで佐々さんを見つけるといつも駆け寄ってきて大きな声で言うのだという。

 「いやあ、紀平さんと私は本当に仲がよくて」

 「いつも佐々さんには大変お世話になって」

 菅氏は、佐々さんが誰かに語らないように、一方的にしゃべって言葉をはさませないとのことだった。佐々さんは嘆いていた。

 「市川さんは菅氏に利用するだけ利用されて、いま生きておられたら本当に不愉快だったろう」

 佐々さんは、歯に衣(きぬ)着せぬ古武士のような風格のある人だった。(論説委員兼政治部編集委員)

 



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