澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

日本統治時代の「御料車」公開~台湾鉄道管理局

2009年03月12日 18時34分30秒 | 台湾

またまた驚くような台湾からのニュース。
台湾鉄路管理局が、日本統治時代の皇室専用客車「御料車」を公開するという。
現存する客車は「国宝級」の文化遺産として保存されているという。

ここで思い出すのが、旧満鉄の超特急「アジア号」。昨年、このアジア号が見られるというので、瀋陽まで出かけた。瀋陽駅近くにある、窓ガラスが破れた倉庫に行くと、雑然とした中に赤さびの吹き出たアジア号が横たわっていた。

中国では、「アジア号」でさえ、「日本帝国主義」が中国を侵略した「証拠品」程度にしか考えていないのだ。したがって、「文化遺産」として保存しようなどとは夢にも思わないのである。

台湾と中国のこの大きな違いをきちんと覚えておく必要があるだろう。

 

統治時代『御料車』公開へ 台湾鉄道当局

2009年3月12日 夕刊

映像で一般公開される皇室「花車」(台湾鉄路管理局提供)

写真

 【台北=栗田秀之】日本統治時代の台湾で製造された皇室や総督用の客車と、戦後に製造された総統用の客車を一般の人たちに親しんでもらうための作業が、台湾鉄路管理局(台鉄)の手で進められている。総統用客車は復元して実際に運行し、皇室や総督用客車は外部を公開し、内部は映像で紹介する。

 これらの客車は「花車」と呼ばれ、それぞれ各一両が現存する。「国宝級」の文化資産として、厳重に保管されている。

 皇室花車は一九一二(明治四十五)年に製造された。車体にはチークを使い、内部はクスノキとヒノキで「芸術的な宮殿のような」(台鉄)装飾が施されている。二三年、当時皇太子だった昭和天皇が台湾西部を視察した際に乗車された。

 総督花車は〇四年の製造。台湾総督のほか総督府高官の視察などに使われた。総統花車は蒋介石の視察用に六九年に改造された車両だが、結局総統として乗車したのは李登輝元総統だけだった


「二・二八事件~『台湾人』形成のエスノポリティクス」

2009年03月12日 16時53分10秒 | 
何義麟著「二・二八事件~『台湾人』形成のエスノポリティクス」(東京大学出版会 2003年)を読む。

本書の冒頭で著者は、次のように言う。
「平野健一郎の新エスニシティ・モデルを使えば、…二・二八事件を通じて台湾人は、ネイションとしての「中国人」になることなく、むしろ「台湾人」というエスニック・アイデンティティが強化された。さらに、ここにおいて戦前における植民地の差別体験が繰り返されることにより、台湾人は中国の国家機構と適合せず、分裂傾向を持つ集団になったのである。つまり、「台湾人」の形成という政治過程が展開したと考えられる。」(p.7)


二・二八事件―「台湾人」形成のエスノポリティクス
何 義麟
東京大学出版会

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本書の要旨はここにあると考えるのだが、「エスニシティ」「エスノポリティクス」などという仰々しい専門用語にはやや違和感を覚える。だが、本書は学術論文として書かれたのだから、仕方ないのだろう。
1945年以前の日本統治時代を台湾人の側から見た前半部分、そして1945年から1947年の「二・二八事件」に至るまでの、陳儀政府による「訓政政治」に対する台湾人の反発、1949年以降「中華民国」の台湾への移転から現在の民主主義体制に至るまでの政治が、具体的な資料に基づき詳しく記されている。

本書に記された「台湾人」の概念を念頭に置けば、何故いま映画「海角七号」が大ヒットしているか、その理由を理解することができる。この映画の監督である魏徳聖氏がインタビューの中で、台湾のエスニシティについて語っているのも示唆的である。

国際政治の場では、台湾はすでに中国によって土俵際まで追いつめられている状態だ。馬英九政権の登場で、中台の一体化はさらに進められるだろう。こういう状況を好転させるためには、「台湾人」というエスニシティの概念が有効に働くと考えられる。「台湾人」の概念が確立していれば、それは「チベット人」「ウィグル人」と同列に位置するのだから、中国共産党による「大中国」「ひとつの中国」の幻想に対抗する武器ともなりうるのだ。

使用言語の区分でエスニシティを解説した台湾の論文では、日本語もそのひとつとして数えられている。そう、日本統治時代の遺産も彼らはきちんとプラスに取り入れているのだ。