望月圭介伝 (1945年) | |
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羽田書店 |
購入してから16年ぶり。ダイジェストのところだけを読んだ「寂聴 般若心経」。
それでは,というので,購入後7年以上たつ『望月圭介伝』も,そろそろ,読み始めようかと考えている。(5年前にもそんなこと書いたっけ?)
当時,1万円もの大枚を投じ入手したこの本の主人公望月圭介は,明治の産声とともに誕生し,逓信大臣,内務大臣などを歴任し,日米開戦の年になくなった大物政治家だ。原敬内閣時代の与党幹事長と紹介するほうがわかりやすいし,そのほうが,圭介の政治家としての実力も推量できるというもの。
没後編纂された『望月圭介伝』には,元首相の宮沢喜一の父:宮沢裕も編集発起人として名を連ねる。代議士同士が秘書を務めるという当時の慣例にそって,宮沢裕が望月圭介の秘書をつとめていたからだ。対岸(まさしく真北というくらい近接)の吉名(竹原市)の造り酒屋に生まれ育った池田勇人は,望月圭介にあこがれ,師事し,政界入したと言う。
望月圭介は,言わば,2人の首相を広島から生み出した人物・その源泉,ともいえる政治家なのである。
望月,宮沢,池田の関係は,竹森俊平の「世界デフレは三度来る 下」にも,孫引きで引用されていたので,以下,少し長いが,孫引き部分を,同書から引用する。(竹森俊平の「世界デフレは三度来る 下」P16~17)
「中村隆英,御厨貴との対談で,宮沢は大蔵省入省当時を次のように追憶する。(中村隆英,御厨貴編『聞き書 宮澤喜一回顧録』2005年 岩波書店)。
「中村:お父様と池田(勇人)さんとは・・・。
宮澤:それはとても長い縁がございまして,広島県に,当時の政界で私の祖父と同僚ぐらいですか,望月圭介という人がいました。それが広島県の選出でございまして,私の父が代議士に当選したときに,「小川の婿だから,婿がなるわけにはいかない,望月君頼むよ。」ということで,投じは代議士が秘書官になっていましたから,父は望月氏の秘書官になりました。そして望月さんの選挙区の小さな村ですが,そこの有力な郵便局長が池田さんの家なんです。ですから,池田さんは,有力者の息子さんということになるわけです。それが,私の父が代議士をしていたとき,その父の同郷の後輩であった池田勇人という人が大蔵省にいて,息子さんを大蔵省に寄越せとしきりに言ってくれたらしい。私は大蔵省に行くつもりはなかったんです。でもとにかく試験だけは受けろ,とあまり言われて,受けた。その時も十分これで納得して行ったわけでもなかったんですが,そう言われたから行った。当時,内務省の誰かからも勧められた覚えがあります。大蔵省というのはあまり面白くないところだろう,という印象をもっていました。役人なら内務省が栄えていたものですから。」
60年代の初めに池田勇人が総理として「所得倍増計画」を推進した時には,宮沢は経済企画庁長官としてそれを援護した。宮沢の回顧談には,いたるところで池田が顔をだすのだが,二人の関係の緊密さは,それが,戦前に遡る長いものであったことにも起因する。宮沢が池田の創設した「宏池会」の会長に就任するのは1986年のことである。なおこの文中に出てくる「小川」とは,戦前の政友会の大物代議士で,鉄道大臣,司法大臣などを務めた小川平吉のことである。宮沢には,母方の祖母に当たる。1998年に宮沢が蔵相に任命された時に,「平成の是清」という言葉が新聞を飾ったが,政友会の総裁まで務めた高橋是清と,高橋が蔵相として入閣した原敬内閣では,党幹事長を務めた小川平吉とは,相当深い関わりがあったはずだ。」同じく政友会の幹事長を務めた望月圭介が,二人の首相を生み出した源泉となる所以である。