宗教に「寛容さ」不可欠

2018年01月29日 20時48分29秒 | 社会・文化・政治・経済
暗殺から70年 ガンジーに学ぶ
「非暴力・不服従」の抵抗運動の行動原理は自ら信奉するヒンズー教の哲学に基づいていた。
だが、ガンジーはイスラム教にも寛容な姿勢を貫いた。
西洋の近代政治が自明のこととしてきた政教分離、つまり政治と宗教を分けるべきだという考え方に対して、「それではさまざまな問題の根本的な解決できない」と考えたことではないでしょうか。
ヒンズー教もイスラム教もキリスト教も仏教も結局のところ真理は同じで、
信仰形態が違うのは地域的な差異に過ぎないとする考え方です。
哲学者の西田幾多郎も同じことを言っています。
一方、西洋哲学はこのような考え方はしません。
「違いは認め合いましょう。共存しましょう」とは言いますが異なる他者との共通性は認めません。
ガンジーは宗派を乗り越えて普遍性を認めたからこそ、さまざまな人々から支持されたのではないでしょうか。
東京工業大学教授・中島岳志さん
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女性のエンパワーメント

2018年01月29日 18時20分29秒 | 社会・文化・政治・経済
「誰も置き去りにしない」とのビジョン。
世界の半分を占める女性たちの人権を守り、希望と尊厳をもって生きられる社会を築く挑戦野中で、女性自らが力強く躍動していくことが期待されている。
「女性のエンパワーメントの国際10年」
無力感を感じていた女性たちが、仕事をすることで、自分たちの価値を見出い、エンパワーされる。
女性の人権や貢献に対する社会の認識を改善させるる流れをつくり出す。
困難に直面する女性たちの生きる力の源となる政策や法律の整備などの規範づくり。
紛争解決と平和構築のプロセスへの女性の参加拡大が図られることが、各国の安全保障政策の転換につながる。
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女性のエンパワーメント
1980年代における女性の権利獲得運動のなかで使われるようになった言葉であるが、現在は対象が拡大しつつある。
定義】 女性のエンパワーメントは、ジェンダーのもとに意思決定過程から排除され、力を奪われ、無力化(disempowerment)されてきた女性たちが、ジェンダー問題に気づき、その批判的意識を行動に転換するために、力の基礎、すなわち意思決定過程への参加の機会を獲得することで、自ら力をつける(self-empowerment)道を開くこと、と定義できる。説明】 エンパワーメントという概念は、、社会的に弱く、また脆弱性を有するものが、人間としての存在を確立し、持てる力を発揮できる。
女性があらゆる分野で経済活動に参加できるように、女性のエンパワーメントを推進することは、女性の人権への理解を深めるばかりでなく、社会や企業の持続的な発展につながります。
企業における女性の活躍推進に向けて、各国政府が積極的に働きかけを行っていますが、国連において、企業が大きな役割を果たすことに期待が広がっています。
企業は、女性が社会的にその力を発揮できるような労働環境・社会環境を整備することへの強い意思を国内外に示すことができます。
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人権の礎は

2018年01月29日 15時44分03秒 | 社会・文化・政治・経済
ひとたび敵対関係が強まれば、相手の存在を根本的に否定し、圧倒的な破壊力で消し去ることも厭わない。
たとえば、ユダヤ人の排斥、殲滅 - ホロコースト
第二次世界大戦中の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)率いるナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺を指す。

人権の礎は<同じ苦しみを味あわせない>との誓いにある。
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今、「赤報隊」を支持する動きも

2018年01月29日 15時11分42秒 | 社会・文化・政治・経済
家人は朝起きると直ぐに、朝刊のテレビ番組面に目を通す。
そして、見たい番組欄を赤いボールペンで囲むように印をつける。
当方は、映画か将棋、ニュース、動物の番組を観ている。
さらに家人のチェックした番組(録画も多い)をほとんで受け身になって観ている。
「こんな番組もあるのか」と身を乗り出すこともある。
NHKのスペシャル未解決事件「赤報隊」朝日新聞記者殺害・首相も標的
捜査線上に9人の右翼
闇に消えた犯人を追う
[総合]後9: 00~9:49「第2夜~ドキュメンタリー~」. 日本中に大きな衝撃を与え、今なお生々しい記憶を残す「未解決事件」を徹底検証し、未来へのカギを探るシリーズ第6弾。

1月28日 1日前 - NHKスペシャル(NHK総合)では、2011年より「未解決事件」と題して、社会に大きな衝撃を与えながら、いまなお多くの謎を残す事件を再検証してきた。
今日・明日と2夜 ... 草なぎ剛「赤報隊事件」テロにあうメディアの側にも非があるのか。
同僚を殺された ... は 動きを止めた。
これら事件のたびに「赤報隊」を名乗る者から犯行声明が送りつけられ、そこには「この日本を否定するものは許さない」「反日分子には極刑あるのみ」などといった、朝日新聞を敵視し、戦後体制を否定する文章が書き連ねられていた。
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しかし、なぜ、今、「赤報隊」を支持する動きもあるのか?
戦前の五・一五事件二・二六事件の時代に遡るような風潮とも思われる。
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赤報隊を名乗る犯人は捕まらず、事件は未解決のままだ。
この30年間、事件を追い続けてきた朝日新聞の記者がいる。
樋田毅(ひだつよし)さん。
65歳。
樋田さんは定年を過ぎた今も、朝日新聞大阪本社に籍を置き、あの事件と向き合っている。事件はなぜ未解決なのか?
30年経ったいま、赤報隊事件の意味とは? 「取材を止めたら赤報隊に敗北したことになる。
だから取材を続ける・・」そう語る樋田さんの日々に密着しながら、事件の概要、影響、教訓などを伝えると共に、言論をめぐる今日的状況 ...

朝日新聞社への恫喝 [編集]匿名の脅迫[編集]『朝日ジャーナル』が原理運動を取り上げた記事を掲載した時、 4万6000件の抗議電話が朝日新聞東京本社にかかり、朝日新聞編集委員宅に ... 1986年12月22日午後4時、朝日新聞東京本社に統一教会と友好関係にある政治団体の街宣車が現れ、2人の男が朝日新聞の国家秘密法案を報道した記事を批判する演説をした。
.... 暴力で言論の自由を圧殺する動きには、ペンで断固戦うべきだ。


赤報隊」を名乗った犯人は闇に消えた。
言論の自由に銃弾を突きつけ、政財界にも矛先を向けた犯人の狙いは何だったのか。
兵庫県警の元捜査員らは無念な思いをかみしめ、今も自問を続けている。
「ベストは尽くした。けれども社会に不安を残した悔いは尽きない」. 事件発生直後に現場捜査の担当班長を務め、後に捜査1課長としても捜査に関わった山下征士さん(78)=同県加古川市=は一線を退いて20年近くたった今も、捜査が適切だったかを考え続けている。 「関西での動きはてはじめである」 ...
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ポスト真実 世界が抱え込んだ病根

2018年01月29日 14時43分04秒 | 社会・文化・政治・経済
カタカナには弱いが、たまには納得できるカタカナもある。
トランプ大統領の言説に呆れる人も少なくない。
ポスト真実とは?
客観的事実よりも感情的な言説に世論が誘導されていく状況という。
政策の詳細や客観的な事実より個人的信条や感情へのアピール(英語版)が重視され、世論が形成される政治文化である。
2016年6月のイギリスのEU離脱是非を問う国民投票(Brexit)、2016年アメリカ大統領選挙で多く使われるようになり、日本では「ポスト真実」(post-truth)は、2016年のDeNAに代表される虚偽情報をばらまいたキュレーションサイトの問題との関連でも注目された。
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本来、街の悪徳不動産が発する、信ずるにたらない言動を揶揄したようなものでしかなかったポスト真実。
民主主義への大義、国民への信義、表現の自由など、「一国主義」という言葉の前で次々に反故にされていく。
その行く先は「不誠実、かつ著しい格差社会」による国民の階級化に他ならない。
世界が抱え込んだ病根は構造的であるがゆえに先行きは暗い。
国際ペン副会長・掘武昭さん
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輪子(りんこ)の競輪日記

2018年01月29日 14時12分50秒 | 未来予測研究会の掲示板
松坂競輪記念の3日目(1月27日)は、大荒れ。
「やってられないよ」とみんさんのぼやきに、肯くほかなかった。
「何を迷っているの?」と声をかけきた海老原さんは、本命党。
筋(ライン、並び)で買っている。
「2レース取ったよ」とたしの座るベンチの脇に来て車券を見せた。
自慢するのではなく、持論を述べるため。
1-7-5が逃げる(先行)ライン。
4-3-6も逃げる(先行)ライン。
9-2-8ラインはまくり(追い込み)ライン。
「競輪は逃げるラインが二つあると、まくり(追い込み)のラインが有利になるんだ」と海老原さんは解説する。
「逃げるラインの2番手の選手が前残りで車券に絡む」
そこで、海老原さんは9-2-3と9-2-7を買ったのね。
「セオリーどおりさ。難しいレースには手を出さないことだね」と言葉に力を込めていた。
1レースが勝負とかで、海老原さんは、1レースも取っていたの。
9-1-3の1番人気で1280円の配当。
「おいしい、車券だよ」と笑顔を見せる。
難しいレースでも、手を出してしまうのは私の悪いクセ。
たしかに、難しレースばっかり!
それが高配当にあらわれていたの。
3レースは6-3-7で24万570円の配当。
3-5-6の並びだったのに、番手の5番選手が失速して不利な位置にいた3番手の6番選手が直線一気で1着。
私も買っていたけど、3-5の2車単が1番人気で390円。
裏の5-3が770円だった。
3番の竹内翼選手は109期(広島 26歳)「ここでは、負けないよ」と勝負強いおじいさんが言っていた。
怖そうな顔しているけど、意外と優しい人だった。
後ろの席に座っていて、わたしがボールペンを落とした時、拾いに前の席に行ったら「なんだ?。ボールペン落としたのか。言ってくれたら拾ってやったのに」と笑顔となったの。
それで人は見かけで判断できないと思ったの。
3レースは3-5で固いとみんなが思っていたのに、番手の5番選手は9着になってしまった。
「なんて弱いんだ」と5番の大崎飛雄馬選手(愛媛88期 39歳)をみんなが非難していた。
当然よね!

以下が大荒れのレース結果。
6レース=5-9-8 12万6150円
8レース=7-2-8 14万3920円
9レース=4-8-7 27万8560円
12レース=9-3-7 18万70円
12レース(準決勝)は断然1番人気の浅井康太(三重90期 33歳)がまさかの1着失格(内線突破。外側の選手を内側の白い線の内部から追い抜くと失格に)
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朝鮮の血

2018年01月29日 08時21分35秒 | 創作欄
「あなたに朝鮮の血、流れているように、想えるね。あなたを愛しそうだよ」
上野の不忍池に近い裏通りの韓国パブに徹は初めて入った日、店のママさんに言われた。
「あした、仕事ある?」
「日曜なので休み」
「デートするか?」
「デートか、どこへ行こうか?」
「箱根、行ったことない。あなた箱根知ってるか?」
「ああ、箱根へは何度も行った。箱根駅伝を毎年見るよ」
「カコネエキデン、何?」
ママさんは怪訝な顔をした。
「明日、わたしと箱根行く?どうか?」
「行こうか。新宿駅、午後1時、来られる?」
「午後1時、それだいじょうぶ」
「新宿駅、南口、分かる?」
「南口ね。わかったよ。わたし行くよ。必ずね」
徹は何度も女に裏切られてきたので、その日のデートの約束に対して半信半疑であった。
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エミリーとの関係

2018年01月29日 07時51分09秒 | 創作欄
徹はそのころ、蔵前のフィリピンパブの店にはまっていた。
だが、親しくなった「ノラ」のホステスのエミリーとの関係が破綻してゆく。
「私の舟橋のお姉さん、がんになったよ」エミリーが深刻な顔で言う。
「がん?」
「本当だよ。死ぬかも知れないね。保険ない、金かかるね」
「お姉さん病院に入院したの?」
「まだ、だよ。病院さがしている」エミリーはその日、ブルー系のボティコンスーツ姿で、徹の右手を握り「お願いするよ」と懇願するように太ももに手を導くような仕草をする。
徹は高校の先輩が大学病院の事務局に勤務していたので相談した。
「保険なしか。手術に最低100万はかかるな」と小西孝之が言う。
独身の徹は800万円余郵便局に貯蓄していた。
気持ちの余裕からエミリーに200万円を渡した。
「お姉さん、がんの手術うまくいったよ。あなたお姉に会えるよ」
エミリーは舟橋のスナックで働いていた姉のアグネスの写真を見せ「私のお姉さん、私よりいい女ね。あなたも気にいるよ。結婚したい気持ちあるなら紹介するよ」と言った。
38歳の徹は、40歳になるまで何とか結婚したと思っていたので、エミリーの言葉に心を動かした。
「わたし、あたの愛人になるよ。結婚とは別ね」
そして徹はエミリーの誘いで浅草のホテルで、エミリーを抱いた。
さらに3度目のホテルへ。
「あなた、わたしと結婚するね?。お姉さんに、男いたよ」
徹はこれまで、一方的な恋をして失望してきたで、エミリーと結婚してもいいかなと考えた。
「お母さんのために、フィリピンに家買うよ」
エミリーに頼まれ、500万円を渡した。
信憑性は定かではないが、アメリカに帰国した父の元米兵との間に生まれ妹と弟が合せて6人も居ると言っていた。
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北朝鮮は日本の鬼っ子?

2018年01月29日 06時35分54秒 | 社会・文化・政治・経済
韓国の近現代史~日帝三十六年1905年に、日本は朝鮮半島侵略に成功、そして、1910年の「日韓併合」により、
本格的な日本統治の時代が始まりました。
日韓史上最も厳しい関係の始まりです。
朝鮮半島は、第二次世界大戦が終結するまで日本占領下にあり続けました。

日韓併合から第二次大戦終結までの日本統治期間を、韓国では「日帝三十六年」
と呼んでいます。
侵略を受けた朝鮮人民は、当然それに反発し、何度も暴動を起こしましたが、
徹底的な鎮圧の前で、敗北するばかりでした。

日本政府が設置した朝鮮総督府は、その地で暮らす朝鮮民族に、日本の教育を
施しました。
その中には「創氏改名」(名前を韓国語から日本語名にする)などもあり、
朝鮮半島の人々の反感を買うことになりましたが、一方で、朝鮮半島の
生活水準引き上げのため、次々に学校を建設し、諸々の設備を整えていきました。

そのことで識字率を高くすることも成功していて、医療設備の充実化により、
朝鮮人の平均寿命は飛躍的に延びたといわれています。

しかし、アイデンティティを奪われた朝鮮民族の怒りは消えることなく、
暴動は繰り返されました。
そして、第二次世界大戦で日本が敗北したことを受け、ようやく独立国としての
道を歩み始めようとしたのです。

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鬼っ子
「おにっこ」とは漢字で「鬼っ子」と記述して、両親に似ていない子供や、生まれながらに歯が生えている子供。
また大変に乱暴な子供などの事を鬼の子共、との事で、「鬼っ子(おにっこ)」または「鬼子(おにご)」と呼ばれる 。
親に似ない子!‥と、国語辞典には書かれています。
要は「異端」という意味でしょう
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学ぶべき「200年の平和」朝鮮通信使

2018年01月29日 06時17分57秒 | 社会・文化・政治・経済
室町時代以後,朝鮮国王が日本に派遣した使節の,1636年以降の名称 (→朝鮮使節 ) 。江戸時代には 12回に及んだ。
一行はプサン (釜山) から対馬を経て大坂に到着し,京都から江戸へ東海道を下った。江戸城において国書・進物が献上され,将軍からは返書などが返された。
しかし 1811 (文化8) 年の対馬への派遣を最後にとだえた。
通信使によって朱子学をはじめとした中国や朝鮮の先進的な文化がもたらされた意義は大きい。 (→鎖国 )
朝鮮通信使
江戸時代に朝鮮王朝が日本に派遣した外交使節。豊臣秀吉の朝鮮出兵によって途絶えた国交を回復させようと1607年、徳川家康が招いたことに始まる。 
江戸幕府の将軍が代わるごとに日本を訪れ、学問や文化の交流も深めた。
使節団は対馬から日本へ入り、対馬藩が朝鮮との外交交渉を担った。
(2016-11-04 朝日新聞 夕刊 1社会)
朝鮮通信使
江戸時代に朝鮮王朝が日本に派遣した外交使節。豊臣秀吉の朝鮮出兵によって途絶えた国交を回復させようと1607年、徳川家康が招いたことに始まる。江戸幕府の将軍が代わるごとに日本を訪れ、学問や文化の交流も深めた。使節団は対馬から日本へ入り、対馬藩が朝鮮との外交交渉を担った。
李氏(りし)朝鮮の国王が日本国王(日本の外交権者)に国書を手交するために派遣した使節。日本では朝鮮来聘使(らいへいし)ともいう。1404年(応永11)足利義満(あしかがよしみつ)が日本国王として朝鮮と対等の外交(交隣(こうりん))関係を開いてから明治維新まで、両国は基本的にその関係を維持した。それを具体化したのが両国使節の往来による国書の交換である。義満以来かなり両国使節の往来があったが、徳川将軍は直接使節を送らず、朝鮮も釜山(ふざん)以外への日本人の入国を禁じたので、近世では朝鮮使節が来日するのみとなり、国書の交換もその際にまとめて行われた。近世の朝鮮使節は1607年(慶長12)から1811年(文化8)まで12回来日した。日本側はこれらをすべて通信使と考えたが、朝鮮側は、初めの3回は徳川将軍からの国書(対馬(つしま)藩宗(そう)氏の偽作)への回答と、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役で日本に拉致(らち)された被人(ひりょにん)の刷還(さっかん)を目的とする回答兼刷還使を名目とした。この齟齬(そご)は柳川一件(やながわいっけん)を契機に修正され、以後9回は名実ともに通信使となった。
 通信使一行は正使以下300人から500人で構成され、大坂までは海路、それ以東は陸路をとった。一行が日本国内を往来する際の交通宿泊費や饗応(きょうおう)はすべて日本側の負担であったが、通信使の来日は両国の威信をかけた外交行事でもあり、その接待は豪奢(ごうしゃ)を極め、経費は50万両とも100万両ともいわれた。近世中期以降の通信使は将軍の代替りごとに来日するのが例となっていたが、12回目は天明大飢饉(てんめいだいききん)のために延期され、行礼場所も対馬に変更されて、1811年にようやく実施された。その後はたびたび計画されながら財政難や外圧のために延期され、実現しないままに明治維新を迎えた。朝鮮側の通信使派遣には日本の国情偵察という目的もあり、来日のたびごとに詳しい観察記録が残されていて、外国人による近世日本についての貴重な記録の一つとなっている。なお1711年(正徳1)、新井白石(あらいはくせき)は、朝鮮側国書にある将軍の呼称を従来の「日本国大君(にっぽんこくたいくん)」から「日本国王殿下」に改めさせ、また使節の接遇を簡素化したが、白石失脚後はすべてもとの形態に戻された。[荒野泰典]

朝鮮通信使
徳川将軍の代替わりの祝賀などのために1607~1811年に12回、来日。正使や副使を筆頭にその数は400~500人にものぼったとされ、外交だけでなく学問や文化の交流を繰り広げた。今回、「世界の記憶」として、日韓両国にある計111件333点が登録された。
(2017-11-02 朝日新聞 朝刊 3社会)
李氏朝鮮の国王が日本国王(日本の外交権者)に国書を手交するために派遣した使節。日本では朝鮮来聘(らいへい)使とも呼ぶ。1404年(応永11)足利義満が〈日本国王〉として朝鮮と対等の外交(交隣)関係を開いてから,明治維新にいたるまで,両国は基本的にはその関係を維持した。
この関係にもとづいて,朝鮮からは通信使(派遣の名目によって回答使とされることもある)が来日し,日本からは〈国王使〉が派遣された。しかし,両国王使節の頻繁な往来は〈文禄・慶長の役〉までであった。


李氏(りし)朝鮮の国王が日本国王(日本の外交権者)に国書を手交するために派遣した使節。日本では朝鮮来聘使(らいへいし)ともいう。1404年(応永11)足利義満(あしかがよしみつ)が日本国王として朝鮮と対等の外交(交隣(こうりん))関係を開いてから明治維新まで、両国は基本的にその関係を維持した。それを具体化したのが両国使節の往来による国書の交換である。義満以来かなり両国使節の往来があったが、徳川将軍は直接使節を送らず、朝鮮も釜山(ふざん)以外への日本人の入国を禁じたので、近世では朝鮮使節が来日するのみとなり、国書の交換もその際にまとめて行われた。近世の朝鮮使節は1607年(慶長12)から1811年(文化8)まで12回来日した。日本側はこれらをすべて通信使と考えたが、朝鮮側は、初めの3回は徳川将軍からの国書(対馬(つしま)藩宗(そう)氏の偽作)への回答と、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役で日本に拉致(らち)された被人(ひりょにん)の刷還(さっかん)を目的とする回答兼刷還使を名目とした。この齟齬(そご)は柳川一件(やながわいっけん)を契機に修正され、以後9回は名実ともに通信使となった。
 通信使一行は正使以下300人から500人で構成され、大坂までは海路、それ以東は陸路をとった。一行が日本国内を往来する際の交通宿泊費や饗応(きょうおう)はすべて日本側の負担であったが、通信使の来日は両国の威信をかけた外交行事でもあり、その接待は豪奢(ごうしゃ)を極め、経費は50万両とも100万両ともいわれた。近世中期以降の通信使は将軍の代替りごとに来日するのが例となっていたが、12回目は天明大飢饉(てんめいだいききん)のために延期され、行礼場所も対馬に変更されて、1811年にようやく実施された。その後はたびたび計画されながら財政難や外圧のために延期され、実現しないままに明治維新を迎えた。朝鮮側の通信使派遣には日本の国情偵察という目的もあり、来日のたびごとに詳しい観察記録が残されていて、外国人による近世日本についての貴重な記録の一つとなっている。なお1711年(正徳1)、新井白石(あらいはくせき)は、朝鮮側国書にある将軍の呼称を従来の「日本国大君(にっぽんこくたいくん)」から「日本国王殿下」に改めさせ、また使節の接遇を簡素化したが、白石失脚後はすべてもとの形態に戻された。[荒野泰典]

【海游録】より
…1719年(享保4),徳川吉宗の将軍職襲位を賀す朝鮮通信使(正使洪致中)の製述官申維翰の日本紀行文。内容は日本の自然,物産,文物,制度,人情,世相,風俗の観察から,対馬藩真文役雨森芳洲,大学頭林信篤などとの筆談にまで及ぶ。…
【国役】より
…普請費用の膨張に伴い,この限度額の制度は1866年(慶応2)に廃されたが,明治政府の下では高100石あたり金1両2分の賦率とされている。
[朝鮮信使国役]
 将軍の代替りに来日する朝鮮信使(朝鮮通信使)の逓送については,従来,沿道諸国の大名の人馬供出をもってなされていたが,1719年(享保4)の来日時より請負の通し人馬によってこれを賄い,その費用が21年に畿内より武蔵国までの東海道16ヵ国の農民から高100石あたり金3分余の国役金として徴収された。その後この国役は信使の来日ごとに課されたが,1808年(文化5)のときには日本全国に対して惣国役として高100石あたり金1両が賦課された。…
【大君】より
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幸福度調査、日本は50位

2018年01月29日 05時01分05秒 | 社会・文化・政治・経済
人生、思い通りにいかないことは多い。
だが、道は一つではない。
周囲の励ましで、かえって大きな道が開かれることもある。

人の心を動かすのは心の奥低から出たものだけ-ゲーテ

国連が2012年から始めた幸福度調査、日本は50位。
人とのつながりを重視する国であるデンマークは4度1位に。
つまり、幸福とは心の満足。
日々の暮らし、生活の潤い。
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1月28日(日)のつぶやき

2018年01月29日 03時30分32秒 | 医科・歯科・介護
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