子どもを受動喫煙から守ろう

2018年01月13日 21時50分59秒 | 医科・歯科・介護
家庭内で子どもと同じ部屋で喫煙しない。
子どもが乗っている自動車内で喫煙しない。
子どもは自らの意思でで受動喫煙を避けることが難しいので保護が必要だ。
たばこには70種類以上の発がん物質が含まれている。
喫煙が原因で死亡する人は年間約13万人。
また、受動喫煙で亡くなる人は年間1万5000人。
受動喫煙による乳幼児突然死症候群の死者は年間73人程度。
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取手利 たこあげ大会に遅れる

2018年01月13日 11時22分30秒 | 日記・断片
取手利根川に「たこあげ」を見に行くが、すでに終わっていた。
フリーズするパソコン。
約20分かけて入力した文章が、保存されていない。
CSテレビの将棋番組を観る。
結果的に、たこあげ大会に遅れる。
父母や祖父母とたこを手に、帰宅する子どもたちとすれ違う。
将棋番組を観たことを悔いる。
それから、午後1時30分からの取手文化会館の会合へ向かうが、20分ほど利根川の緑地公園に居れば、たこあげ大会の表彰式に立ち会えただろう。
なぜ、約15分か20分待てなかったのか、と悔いる。








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画家・熊谷守一 没後40年

2018年01月13日 10時28分13秒 | 社会・文化・政治・経済
画家・熊谷守一(1880~1977)のことを新聞で知る。
知らないことが少なくないので、新聞は常に貴重な情報源。
今年は没後40年だそうで、東京豊島区の自宅跡地に熊谷守一記念がある。
同級生(東京美術学校・東京芸大の前身)に青木繁がいた。
50代半ばを過ぎるまで売るための絵を描くことができず、生活は苦しかった。
現在知られている多くの作品が、70歳を過ぎて以降に描かれ売れた。
そのことに驚かされる。
そして97歳で亡くなるまで制作を続けた。
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没後40年 熊谷守一 生きるよろこび|東京国立近代美術館 2017年12月 ...

画家の軌跡. 熊谷守一プロフィール写真。
没後40年を記念して、画家、熊谷守一(1880‐ 1977)の回顧展を開催します。
熊谷守一は、明るい色彩と単純化されたかたちを持つ作風で知られます。
晩年は花や虫や鳥など身近なものを描くたくさんの作品を生み出しました。
飄々 ( ひょうひょう ) とした味わいを持つエッセイでも知られ、『へたも絵のうち』(原著は1971年、現・平凡社ライブラリー刊)は、現在もロングセラーの文庫となって若い層にも読み継がれています。 その作品は一見ユーモラスで、何の苦もなく描かれたように ...
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熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年(明治13年)4月2日 - 1977年(昭和52年)8月1日)は、日本の画家。
日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。
しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。
富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。
晩年は自宅からほとんど出ることがなく、夜はアトリエで数時間絵を描き、昼間はもっぱら自宅の庭で過ごした。
熊谷にとっての庭は小宇宙であり、日々、地に寝転がり空をみつめ、その中で見える動植物の形態や生態に関心をもった。晩年の作品は、庭にやってきた鳥や昆虫、猫や庭に咲いていた花など、身近なものがモチーフとなっている。(現在庭は残っていない。旧居跡地には1985年に熊谷守一美術館が建てられた。)
1956年(昭和31年)76歳 軽い脳卒中で倒れる。
以降、長い時間立っていると眩暈がすると写生旅行を断念し遠出を控えた。
1967年(昭和42年)87歳 「これ以上人が来てくれては困る」文化勲章の内示を辞退した。
また1972年(昭和47年)の勲三等叙勲も辞退した。
1976年 郷里の岐阜県恵那郡付知町に熊谷守一記念館が設立される。
機械紡績を営む事業家で地主の父熊谷孫六郎は、1889年に初代岐阜市長に就任、1892年には衆議院議員に選出され、岐阜の名士となった人物。
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新聞の投稿を足かけ45年

2018年01月13日 10時07分56秒 | 沼田利根の言いたい放題
新聞の投稿を50歳過ぎてから実に足かけ45年、絶えまなく続けてきたご婦人がおられたことに、感嘆した。
昭和48年を皮切りに平成28年まで。
世間には驚く人が居るのだ。
96歳の新聞投稿が最後になったそうだ。
当方の友人Nさんの新聞投稿を何度か読んだことがあるが、長年続けていることに刺激を受ける。
自己満足・充実ともなるのであろうが、その軌跡に、勇気づけられた読者も多いだろう。
歯科界では元千葉県歯科医師会会長を務めた斎藤貞夫さんの新聞投稿が思い出された。
読売新聞はじめ各紙に投稿を続け、それが1冊の本となる。
歯科医師なので歯科医療のことを投稿するのかと思いきやそうではなかった。
かなりの見識、教養、批判精神、問題の分析力、提案力などがペンを持たせたのだろう。
ワープロをやらず自記筆での投稿だった。
一般紙の他、日本歯科新聞にも投稿を続け、それが専門欄となった。
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1月12日(金)のつぶやき

2018年01月13日 03時15分46秒 | 医科・歯科・介護
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