地元の農協のリイチさんの好意で手に入れたトラクターと田植機で、今年は順調に代掻きも田植えも終えることができた、と書きたいところだが、実際にはいろいろ問題が起きて、来年の課題となったことも多かった。
まず代掻きだが、最大の反省点は、田んぼの均平が今ひとつだったこと。あまり掻き回しすぎてもいけないので、ある程度のところで「よし」とせざるを得ないのだが、まあ60点くらいのできかなあ。不満が残った。
代掻き中のわが勇姿、と言いたいところだが、後ろ姿にどこか元気がないよな。迷いがあるんだろうなあ。

ナガちゃんも忙しいさなか見に来てくれて、いろいろアドバイスしてくれる。アドバイスを受けて少しずつコツをつかんでゆく。これは本当に助かった。途中で「ロータリー(20本くらいのツメを回転させて土を耕す部分)の音がおかしい」と点検もしてくれた。スパナでツメを1本1本ゴンゴン叩くと3本ほど鈍い音がするツメがある。ボルトが緩んでいるのだ。レンチで締め付ける。こうしておかないと田んぼの中にツメを落としてしまうことがあるという。そうなったらまず発見できない。そして秋、刈り取り後の耕耘のとき運悪くトラクターが踏んづけるとパンクする。

田んぼを均一に平らにするのは、田植え後の深水管理のため。田植え後、7~10センチくらいの深水を20日間維持すると、田の草の主役中の主役である稗(ヒエ)が生育できない。菜の花の抑草効果と合わせて深水管理をおこなうことでその稗を放逐できる(はずだ)。が、田が均平でなく浅いところや土が見えているところがあると、そこをめがけて稗が湧いて出る。それで田の均平が重要になるのだが、今回は初めてのトラクターで、しかも今回初めて引き受けた田んぼもあり、今ひとつうまくいかなかった。代掻きが終わるころにようやくコツをつかんだが、米づくりは1年に1回しかできないので、後は来年だ。もどかしいが、この時間感覚になじむしかない。
代掻きが終わって2~3日、土が落ち着くのを待って田植えにかかる。今年最大のテーマは疎植と細植え。疎植とは苗と苗の間隔を広くすること。慣行農法(農協などが推奨する主流農法)では1平米あたり20株前後植えるが、それを10株ほどに減らす。そして1株あたりの苗の本数を1~2本の細植えにする。慣行農法では最低でも3~4本の太植えだ。苗の本数にすると慣行農法の半分の半分、つまり4分の1以下になる。当然、収穫量も4分の1になると思うでしょう?普通。それがそうはならないんです。疎植・細植えの苗は、密植・太植えの苗に比べ1本1本が何倍にも分けつ(株が分かれて増えていくこと)するので、結局収量はたいして変わらない(らしい)。遅植えにするのは寒さというストレスを苗にかけないようにするため。
わが参考書『痛快イネつくり』の著者、井原豊さんは、この疎植・細植え稲作を「基本的イネ権」を尊重する農法だと言う。その逆の密植・太植えの稲作に対しては「今の機械密植の稲作は、イネの持つ力を完全に封じ込めている。イネは分けつしたくてしたくて仕方がない。なのに過密ぎゅぎゅうづめにして、のびのびと育てさせない。いわば基本的イネ権の蹂躙である。籾一粒は基本的に、すこやかに自由に育つ権利を有するのだ」ときびしい。
で、田植えの結果がこれ

……
なんかなあ。
脱力するよなあ。
葉先の黄色いひょろひょろ苗が疎(まば)らに植わり、しかも欠株だらけ。基本的イネ権の尊重と力んだが、昔わが舎に訪ねてきた皮膚病にかかった禿げタヌキみたいじゃないか。
それにしても「全農 春風」よ。苗の掻き取り量を「最少」にしたら欠株だらけとはどういうわけだ。それほどまでにおまえは農協寄りなのか。リイチさんに掛け合って来年の田植えまでにはどげんかしてもらおう。
というわけで、不完全燃焼気味に今年の田植えが終わった。とはいえ、田植えは1年の田んぼ仕事のなかで稲刈りと双璧をなすハレの日。舎長の友人のケイコさんがお昼ご飯を持って応援に来てくれた。ナガちゃんの奥さんのフミエさんも朴葉(ほおば)に包んだ豆ご飯を差し入れてくれた。写真の右上にちらりと見えているのがそれ。このあたりでは田植えに朴葉メシを差し入れるのが習わしらしい。田植えのすんだ畦道でみんなで食べた。おいしかった。感謝の気持ちを、来年への取り組みに生かしたい。

追伸
山下惣一という農民作家がいる。名前だけは知っていたが作品を読んだことはなかった。去年、雑誌の書評で紹介されていて興味をひかれ、『減反神社』という作品集をネットの古本屋で購入して読んだ。1981年に出た本だ。野坂昭如氏がまえがきを寄せていて、「『ついに山下出づ』といった印象」「なによりおもしろい」「モーパッサン、ゴーゴリ、チェーホフに匹敵する傑作」と絶賛している。そこまで言うか、と思いながら読みはじめたが、「なによりおもしろい」。
その作品の中で村の婆ちゃんが「百姓は、来年は来年は、でやり暮らす」とつぶやく場面がある。
百姓というのは失敗あるいは天候不順などで作物のできが悪くても、「もういやじゃ」「もうやめや」とは言わないもの、逆に「来年はああしよう」「来年こそはうまくやるぞ」と考えるもの、という意味だ。「百姓の来年」ともいう。この言葉、よくわかる。
見てろよ~。来年はもっとうまくやるぞ~!。
まず代掻きだが、最大の反省点は、田んぼの均平が今ひとつだったこと。あまり掻き回しすぎてもいけないので、ある程度のところで「よし」とせざるを得ないのだが、まあ60点くらいのできかなあ。不満が残った。
代掻き中のわが勇姿、と言いたいところだが、後ろ姿にどこか元気がないよな。迷いがあるんだろうなあ。

ナガちゃんも忙しいさなか見に来てくれて、いろいろアドバイスしてくれる。アドバイスを受けて少しずつコツをつかんでゆく。これは本当に助かった。途中で「ロータリー(20本くらいのツメを回転させて土を耕す部分)の音がおかしい」と点検もしてくれた。スパナでツメを1本1本ゴンゴン叩くと3本ほど鈍い音がするツメがある。ボルトが緩んでいるのだ。レンチで締め付ける。こうしておかないと田んぼの中にツメを落としてしまうことがあるという。そうなったらまず発見できない。そして秋、刈り取り後の耕耘のとき運悪くトラクターが踏んづけるとパンクする。

田んぼを均一に平らにするのは、田植え後の深水管理のため。田植え後、7~10センチくらいの深水を20日間維持すると、田の草の主役中の主役である稗(ヒエ)が生育できない。菜の花の抑草効果と合わせて深水管理をおこなうことでその稗を放逐できる(はずだ)。が、田が均平でなく浅いところや土が見えているところがあると、そこをめがけて稗が湧いて出る。それで田の均平が重要になるのだが、今回は初めてのトラクターで、しかも今回初めて引き受けた田んぼもあり、今ひとつうまくいかなかった。代掻きが終わるころにようやくコツをつかんだが、米づくりは1年に1回しかできないので、後は来年だ。もどかしいが、この時間感覚になじむしかない。
代掻きが終わって2~3日、土が落ち着くのを待って田植えにかかる。今年最大のテーマは疎植と細植え。疎植とは苗と苗の間隔を広くすること。慣行農法(農協などが推奨する主流農法)では1平米あたり20株前後植えるが、それを10株ほどに減らす。そして1株あたりの苗の本数を1~2本の細植えにする。慣行農法では最低でも3~4本の太植えだ。苗の本数にすると慣行農法の半分の半分、つまり4分の1以下になる。当然、収穫量も4分の1になると思うでしょう?普通。それがそうはならないんです。疎植・細植えの苗は、密植・太植えの苗に比べ1本1本が何倍にも分けつ(株が分かれて増えていくこと)するので、結局収量はたいして変わらない(らしい)。遅植えにするのは寒さというストレスを苗にかけないようにするため。
わが参考書『痛快イネつくり』の著者、井原豊さんは、この疎植・細植え稲作を「基本的イネ権」を尊重する農法だと言う。その逆の密植・太植えの稲作に対しては「今の機械密植の稲作は、イネの持つ力を完全に封じ込めている。イネは分けつしたくてしたくて仕方がない。なのに過密ぎゅぎゅうづめにして、のびのびと育てさせない。いわば基本的イネ権の蹂躙である。籾一粒は基本的に、すこやかに自由に育つ権利を有するのだ」ときびしい。
で、田植えの結果がこれ

……
なんかなあ。
脱力するよなあ。
葉先の黄色いひょろひょろ苗が疎(まば)らに植わり、しかも欠株だらけ。基本的イネ権の尊重と力んだが、昔わが舎に訪ねてきた皮膚病にかかった禿げタヌキみたいじゃないか。
それにしても「全農 春風」よ。苗の掻き取り量を「最少」にしたら欠株だらけとはどういうわけだ。それほどまでにおまえは農協寄りなのか。リイチさんに掛け合って来年の田植えまでにはどげんかしてもらおう。
というわけで、不完全燃焼気味に今年の田植えが終わった。とはいえ、田植えは1年の田んぼ仕事のなかで稲刈りと双璧をなすハレの日。舎長の友人のケイコさんがお昼ご飯を持って応援に来てくれた。ナガちゃんの奥さんのフミエさんも朴葉(ほおば)に包んだ豆ご飯を差し入れてくれた。写真の右上にちらりと見えているのがそれ。このあたりでは田植えに朴葉メシを差し入れるのが習わしらしい。田植えのすんだ畦道でみんなで食べた。おいしかった。感謝の気持ちを、来年への取り組みに生かしたい。

追伸
山下惣一という農民作家がいる。名前だけは知っていたが作品を読んだことはなかった。去年、雑誌の書評で紹介されていて興味をひかれ、『減反神社』という作品集をネットの古本屋で購入して読んだ。1981年に出た本だ。野坂昭如氏がまえがきを寄せていて、「『ついに山下出づ』といった印象」「なによりおもしろい」「モーパッサン、ゴーゴリ、チェーホフに匹敵する傑作」と絶賛している。そこまで言うか、と思いながら読みはじめたが、「なによりおもしろい」。
その作品の中で村の婆ちゃんが「百姓は、来年は来年は、でやり暮らす」とつぶやく場面がある。
百姓というのは失敗あるいは天候不順などで作物のできが悪くても、「もういやじゃ」「もうやめや」とは言わないもの、逆に「来年はああしよう」「来年こそはうまくやるぞ」と考えるもの、という意味だ。「百姓の来年」ともいう。この言葉、よくわかる。
見てろよ~。来年はもっとうまくやるぞ~!。
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