とねり日記

とりことや舎人(とねり)の
どげんかせんとの日々

今年最後の大仕事

2013年12月31日 | 山里から
お地蔵さんの横に農機具小屋を建てよう、と思いたったのは去年の夏のこと。
途中のことは省きますが、あれから1年半、二度目の冬がやってきて、お地蔵さんの頭に白いものが積もるころになって、


ようやく上棟となった。12月30日にですよ。とにかく年内に棟木だけでも上げておきたかったのです。半分、意地です。


田舎で百姓をしていると、やたらと小屋がほしくなる。人に頼む金はないので、自分で建てることになるが、自分で建てられるとなると、「やたら」に拍車がかかり、毎年のように小屋が増えていき、自宅周辺にはやたらめったら小屋が建ち並ぶ。私もささやかながら、この3年ほどの間に、大小4軒の小屋を建てた。

で、今回が5軒目の小屋となる。これまでと違うのは、かすがいなどの金物でなく、ほぞを切ってつなぐ軸組にしたこと。

これは土台。基礎と土台はボルトでつないである。けっこう、本格的でしょう?


これは梁と棟木。きちんと収まっているでしょう?


舎長に手伝ってもらって、二人で棟上げしました。12月の30日にですよ。ちなみにサッシ屋さんがくれたカレンダーでは12月30日は「棟上げ吉日」となっている(誰がこんな日に棟上げするんだ?)。


その影響で、翌31日は、夜10時過ぎまで、正月の準備。

舎長はへとへとに疲れて、ラジオから流れてくる紅白歌合戦(歌合戦だったのね)もろくに聞かず、こたつに足を突っ込んでうとうとしている。

ありがとう。助かったよ。来年もよろしくね。

ブログを読んでくださっている皆さんも、よいお年を!
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猪2頭、鹿4頭

2013年12月30日 | 山里から
いきなりでなんですが、京都の「恵文社・一乗寺店」という本屋をご存じですか?
京都市左京区の叡山電鉄・一乗寺駅から徒歩3分ほどのところにある本屋です。

たぶん、おそらく、メイビー、日本一魅力的な本屋だと思う。しかも日本第二位を大きく引き離している(はずだ)。どこがどう魅力的なのか、説明してあげたいが、めんどくさい、と思うくらい、言葉を超えている、というか、私にもよくわからない。

とにかく、恵文社に行って、本を買わずに帰ったためしがない。 ここの本屋に入るとね、数分も経たないうちに、自分自身でも意識できていない「いま最も読みたい本」が、目に飛び込んでくるんですよ。

こんな本屋が、近所にあったら、かなりヤバイッす。本買うためにサラ金で借金しそう。

で、師走も半ば、ビンボーひまなしの真っ最中に、恵文社に行った。いつも私たちを応援してくれるオオタさんと、地球の反対側から私たちを応援してくれるアキちゃんの弟さん(祇園でイタリアンレストランを経営)が、少しまとまった量の炭を注文してくれたので、京都市内まで届けに行き、そのついでにチラッと寄ったのだ。舎長と二人で、20分だけ、と決めて。もちろん、本を買うつもりはなかった。金もないし。

でも、店に入り、トイレを借りて、あれこれ置いてあるフライヤーなどを10枚ほどいただいて、少しだけ店内を歩いたら、数分後に、本を2冊抱えてレジの前に立っていた。

そのうちの1冊『狩猟文学マスターピース』の後書きで編者の服部文祥氏がこう書いている。
「狩猟には呼吸というものがあって、そのなかには撃つ側だけでなく撃たれる側の覚悟のようなものがあるのではないかと、私は感じている。猟のベテランの中には、鹿が狙われていることに気がついていないとき、わざわざ足もとの小枝を踏み折って音をたてる人がいる」

銃による猟について書かれたものだが、わな猟でも同じような感覚がある。罠にかかった鹿や猪は、人が近づいていくと(おそらく恐怖で)死にものぐるいになって激しく暴れる。猟師は、とどめを刺すために、獲物の動きを徐々に封じていくのだが、あるとき、ふっと、獲物が静かになるときがある。喉もとに槍をあてがっても、こちらを見つめたまま静かにしている。その瞬間を逃さず、槍をすっと刺すと、槍の先端はなんの抵抗もなく柔らかな喉に入っていく。次の瞬間、獲物は「ヒーッ」と高い声をあげ、喉からドクドクと血をあふれさせる。獲物が声を出すのはこのときだけだ。数分後、鹿は目を見開いたまま、猪は目を閉じて、静かに息絶える。
……
服部氏は、こうも書く。
「この気持ちをうまく説明することは私にはできない」…「理屈では正当化できても、心の奥ではくすぶり続けているこの行為への疑問、そして信頼」と。

解禁日の11月15日に猪2頭を仕留めてから(11月18日記事・参照)、11月21日牡鹿、12月9日雌鹿、12月13日雌鹿、12月17日雌鹿と、4頭の鹿を獲った。この間も、お客さんが続くときなど忙しいときは罠にストッパーをかけていた。フルで獲っていたらあと数頭は間違いなく獲れていたと思う。去年よりも腕が上がったのかなあ。それとも鹿が増えたのかなあ。

牡鹿は、角が二股に分かれている立派な鹿で、これまで私が仕留めた鹿の中では最も大きな鹿だった。


獲物を止め刺しすることは、とてもエネルギーがいる。心のエネルギーも体のエネルギーも。

そして、腹を割いて内蔵を出し、川に浸け、川から引き上げ、小屋に吊し、皮を剥ぎ、四肢を切り離し、頭を切り落とし、肉を取り、筋を取り、ブロックに仕分け、ラップで包み、冷凍し…、骨や皮などを処分し…、といった作業は、それに数倍するエネルギーがいる。

舎長と二人、寒さと、わき上がってくるさまざまな感情に体をこわばらせながら、黙々と作業を続ける。

猪2頭と鹿4頭の肉その他で、わが舎の二つの冷凍庫は満杯になった。それも含め、しばらく、物理的・時間的理由で猟は休まざるを得ない。いま、罠にはストッパーをかけて、獲物が入っても扉が落ちないようにしてある。

年が明けたら、また、猟を再開する。
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忘年乱舞ライブ

2013年12月17日 | 山里から
前々回の記事でお知らせしたとおり、沖縄・読谷村(よみたんそん)から知花ショーイチさんがサンシンカタミティ(サンシンを担いで)やってきた。

ショーイチさんと知り合ったのは25年以上も前のこと。以来、ショーイチさんは、私にとっていつも「大きな人」でまぶしい存在だった。体も大きいが心も大きい人なのだ。知り合った当時、ショーイチさんは村内で小さなスーパーを2軒経営していた(後に弟さんに譲られた)。店を切り盛りしながら、ショーイチさんは村の若手のリーダー格として、いろんな活動をされていた。たしか村商工会の副会長かなんかもやっていたのではなかったかな?

ところで、読谷村はあと2週間で「日本一」の村になる。岩手県滝沢村(人口5万5000人)が2014年1月1日から市制に移行するので、人口4万人の読谷村が日本一人口の多い村になるのだ。読谷村の名前が全国に知れ渡ることになるだろうが、読谷村といえばもう一つ、知られていることがある。

沖縄戦のとき、(沖縄本島で)米軍が最初に上陸した村なのだ。

そこではさまざまな悲劇が起きた。村人が決して語ろうとしない、深い心の傷となるような悲劇もあったが、戦後40年を過ぎたころから、ポツポツと語りはじめるお年寄りたちが出てきた。40年経って自分も老い先短い身となってからでないと話せないような、それほどつらい出来事があったのだ。ショーイチさんはその聞き取り調査の中心メンバーの一人でもあった。聞き取りをしながら、村外からやってくる人に対する「語り部」もしていた。はじめて会った日、ショーイチさんは、戦闘のさなかに村民が避難していた真っ暗なガマ(鍾乳洞の洞穴のこと)のなかでその話を聞かせてくれた。
 ……
戦闘が終わった後も村はさまざまな苦難を強いられた。村土の95%が米軍に占領され、日本復帰(1972年)時点でも73%を米軍基地・演習場が占めるような状態のなかで、村役場と村民が一体となって、知恵と工夫と粘りと勇気で少しずつ村土を取り戻し、平和な村づくりを進めていった。その中心にもショーイチさんがいた。

村人は、戦火の中で起きた悲劇を悔やみ、悲しみ、怒り、それでもなお残る気持ちを抱えながら前向きに戦後を生きてきた。そうした未来志向の生き方に冷や水を浴びせかけた人たちもいた。ショーイチさんはそうしたことにも毅然と立ち向かった。1987年、読谷村平和の森球場でのできごともそうだった。その後のつらい時期も、ショーイチさんは変わらず、柔らかく明るかった。

ショーイチさんはその後、村会議員を3期務めるなどしたが、数年前、議員を辞め、何を思ったのか、京都のお坊さんの学校に1年通って、浄土真宗の僧侶になってしまった。以来、年に何回か京都に来るようになり、今回、わが舎にも立ち寄ってくれたのだ。

「来るときはサンシン持ってきてね」と頼んでいたとおり、サンシンを担いでやってきた。

前座はわたくしハリマタケオ(ハリマ岳はわが舎の裏の山、ビギンのオモトタケオをパクった)がつとめさせていただきました。「19の春」と「なだそーそー」。工工四(楽譜)を見ないで弾いたのだが、途中で頭が真っ白になって、滅茶苦茶になったにもかかわらず、みんなが歌い繋いでくれた。ありがとう!


続いてショーイチさん。
「ハイサイ、グスーヨー、チューウガナビラ」(かしこまって言うあいさつの決まり文句、直訳すると「やあやあ皆様方のお顔を今日拝見しました」という感じ)
続けて、ウチナーグチ(沖縄語)で自己紹介して、演奏開始。


「安里屋ユンタ」「てぃんさぐぬ花」「二見情話」「屋嘉節」…

♪ゆるはらす(夜走る)ふにや(船は)にぬふぁぶし(北極星を)みあてぃ(目当てにする)わんなちぇる(私を産んだ)うやや(親は)わんどぅ(私を)みあてぃ(目当てにしている)♪(「てぃんさぐぬ花」より)

1曲ごとに丁寧に歌詞の意味や、歌が作られた背景を解説してくれました。
特に「二見情話」。美しい旋律の曲で、私も大好きなのだが、ちょっと難しくてまだ弾けない。その曲に秘められた深い意味を今回教えてもらって、ますます弾きたくなった。

♪ふたみみやらびや(二見村の乙女たちは)だんじゅちむじゅらさ(とても心根が美しく)うみやまぬながみゆすにまさてぃよ(海山の眺めも他所に勝ってすばらしい)♪

みんな最初はおとなしく聞いていたのだが、ついにタッちゃん(木住川の最上流部の築300年の茅葺き屋根の家に住んでいるオバア)、むずむずしてきてたまらず、用意していた着物を羽織って、オリジナルの「沖縄踊り」を踊り出す。


宴もますますたけなわ、二人、三人、四人と踊り出す。


最後はカチャーシー(かき混ぜ踊り)。
恥ずかしがり屋のフミエさんまで、掘りゴタツに座ったまま手だけ動かして踊っていた。


ショーイチさんありがとう、みんなもありがとう、舎長も心のこもった料理ありがとう。
あーすっきり忘年したなあ。
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画像に関するお知らせ

2013年12月11日 | 山里から
ただいまのところ、3回前の記事の途中から、記事中に掲載した画像が見られなくなっています。
現在、gooブログ事務局とも連絡をとりながら、原因の解明と復旧を進めていますが、もうしばらく時間がかかりそうです。
ご迷惑をおかけしますが、もうしばらくお待ちください。

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土間ライブ

2013年12月09日 | 山里から
わが舎にサンシンがやってきてから、とりこと舎周辺の夕暮れ時はうっすらとOKINAWA色に染まってきている、ような…。

4月の終わりごろ手に入れ、5月から練習を始めたが、暖かった時期は、仕事を終えた後に、土間の外のベンチでテントゥンテントゥントゥルルンテンと弾いていた。シロウトが弾いても、サンシンはくっきりとした音色でけっこうな音量がある。川を挟んだ向かいのケイちゃん(83歳)の家はもちろん、その下手のセーやんの家あたりまで十分聞こえているらしい。耳障りでなければよいのだが…、「あれはなんや?」とちょっとした話題になったらしい。

そんなある日の昼下がり、散歩中の、もひとつ下手のオバアがケイちゃんと世間話をしていたとき、「最近(とりこと舎方面から)聞こえてくるあの音はなんじゃろかいな」という話になったそうだ。で想像するに、あれは琉球の楽器らしいなあ、蛇の皮でできた珍しいものらしいなあ、といった会話が交わされたのかもしれない(また聞きなので正確ではありませんが)。しばらくたった、ある日突然♪ その下手のオバアが舎長に
「私もサンシンが欲しい。あんたとこの舎人(とねり)はんに頼んでくれへんか」
と言ってきたのだ。

正直なところ、すこし戸惑ってしまった。
「なんであのオバアが?」…

その後、少し間をおいてから、舎長に「ほんまに欲しいの?」と確認してもらったが、どうも本気らしい。
玄関に飾っておきたいのだそうだ。そして、ゆくゆくは「昔ギターを弾いていたオジイさん(旦那さんのこと)や息子にも弾いて欲しい」とのこと。

そういう訳で、金城善幸さん(私の亡父の従兄弟)に事情を説明して、お願いした。
善孝さんはこころよく引き受けてくださって、2週間ほどたってから、サンシンを送ってきてくださいました。

それはシロウトの私の目から見ても、風格のあるサンシンだった。ニシキヘビの頭から2~3番目の最良といわれる皮で、少し黒ずんでいてほんのり赤みがかった、少しうらやましいくらい、よいものだった。オバアもとても喜んでくれた。

が、それだけではなかった。善孝さんは、包みの中に、もう一棹、サンシンを入れてくれていたのだ。
「舎長さんに」と。
写真の向かって右側手前がそれ。


初心者向けだが、これも善孝さんの作品だ。
舎長も大喜び、大感激。
さあこれから、舎長、舎人、オバアの3人で「うちら陽気なかしましトリオ~♪」と、練習に励もうかいなと意気込んでいた矢先、熟練のサンシン弾きが沖縄からわが舎にやってくるとの連絡が入った。ようやく工工四(サンシンの楽譜)を見ながら5曲ほど弾けるようになった私など足もとにも及ばないその人は、知花ショーイチさんといい、私の敬愛する大先輩。沖縄本島中部の読谷村で「何我舎(ぬーがやー)」(沖縄語で「なんだろう?」の意味とかけている)というステキな旅の宿もされています。

それならば、ショーイチさんのサンシンで「プチ土間ライブ」をやろうかいな、という話になり、それを炭焼き作業終了後に「里まる」メンバーに話したら、「里まるの忘年会も兼ねてやろう」ということになり、そういうことになりました。

12月14日(土)、夕刻より、参加費20ぴよ(2000JPY)。持ち寄り大歓迎。
来られる方はどうぞ遠慮なく。
翌15日は4回目の炭焼き(12月1日窯入れ)の窯出しですので、こちらの方もお手伝いいただければ嬉しいです。
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